「嫌われる勇気」を最初に読んだときは、難しいなと感じました。
大ベストセラーである理由も、わかりませんでした。
本当にこれを実践できている人がいるのだろうか、と。
続編の「幸せになる勇気」を読んで、その違和感が少しほぐれました。
次のようなことが書いてあったからです。
もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。アドラーがわれわれに要求することの内実を理解すれば、その厳しさに身を震わせることになるはずですから。
やはり、アドラー心理学は難しいのです。
なぜ、難しいか?
ひとことで言うと、「愛される生き方」から「愛する生き方」への転換を説いているからだと思います。
そして、「ほめられること」は求めないという、「承認欲求の否定」。
さて、そんな生き方を、選択できるでしょうか。
Contents
私たちは、なぜ不幸なのか
これはちょっと、衝撃的な事実。
私たちは、口では「幸せになりたい」と言いつつも。
実は。
「不幸になること」を積極的に選んでいる場合が多いのだといいます。
「不幸を感じている」のではなく、「不幸になるために」行動している。
つまり、「幸せになる勇気」がないのだ、と。
不幸になるための行動 = 問題行動には5段階あります。
必ず、1から順番に歩んでいきます。
問題行動の5段階
[すべての問題の入り口]
- 目的:ほめてもらうこと
- 行動:「いい子」を演じる、やる気や従順さをアピールする等
[ほめられないから、注目を集めようとする]
- 目的:目立つこと
- 行動:悪いことをする、「できない子」として振る舞う等
[注目を得られないことで、争いに入る]
- 目的:自分の力を誇示すること
- 行動:反抗する、無視する等
[争うことをあきらめ、相手が嫌がることを繰り返す]
- 目的:愛してくれなかった人への復讐
- 行動:ストーカー、自傷行為、引きこもり等
※この段階から、専門家への相談が必要なレベルになる
[これ以上の絶望を味わいたくなくて、課題から逃げる]
- 目的:見捨ててもらうこと
- 行動:無気力になり、愚か者を演じる等
「称賛」「注目」「権力争い」までは、自己アピール段階
5つのうち、3段階目までは、自己アピール段階。
ここまでなら、周囲のサポートで改善できるとされます。
いい友人や先輩に出会えれば、軌道修正ができます。
「復讐」「無能の証明」になると、専門家が必要な段階
愛が復讐に変わってしまうと、周囲のサポートだけでは難しいとされます。
専門家の力が必要。
「ウツの人を激励するのは逆効果」だとも、よくいいますよね。
知識のない人がむやみに励ますのは、危険なのです。
「気の持ちよう」というレベルでは、ありません。
「大したことない」と思わず、きちんと専門家に相談し、「治療」として取り組むべきです。
5段階のすべてに貫かれているのが、承認欲求
「こんな私を、誰か承認して」という思い。
もっと言うと、「特別なわたし」でいたいという願い。
最初は、「ほめられたい」気持ちからスタートし、どんどんエスカレートしていく。
だからアドラー心理学では、「承認欲求」を否定するのです。
他者からの承認ではなく、「自己承認」をする
専門家が必要なレベルになる前に、軌道修正しなければなりません。
そのためには、他者からの承認に依存するのではなく、自己承認に切り替えるのです。
でもやっぱり、誰かにほめられたい……
私たちはなぜ、他者に「ほめられたい」と思うのでしょうか。
根源的な欲求は、「所属感」
アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死につながり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
……共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。
所属感とは、「居場所がほしい」という欲求
私たちは常に、他者の中での「自分の居場所」を求めます。
それが、「所属感」というもの。
その所属感が、次のような欲求を引き起こします。
- 「その他大勢」になりたくない
- 「特別なわたし」でいたい
「その他大勢」にならないために、「特別なわたし」でいるために、ほめられたいし、注目を集めたいし、権力を持ちたい
その根底には、一貫した思いがあります。
- もっと私を尊重してほしい
- もっと私を愛してほしい
私たちは、自分を尊重されたいし、愛されたい。
それを、強く激しく、求めています。
そのためなら何でもする。
注意すべきは、「いい子」でいることや、社会的な成功を目指すことさえも、「特別な地位を得たい」という問題行動である可能性があることです。
典型的なのが、「ワーカホリック」。
仕事を頑張ることでしか、自分は愛されないと思っているから。
あるいは、「いい子」でいないと、愛されないと思っているから。
なんと。
「愛されたい」というのは、「甘えた子どもの生き方」であるといいます。
子どもは、「愛されるためのライフスタイル」を選択する
かつては、親を支配することでしか生きられなかった
子どもたちは、自活することができない。泣くこと、つまり己(おのれ)の弱さをアピールすることによって周囲の大人を支配し、自分の望みどおりに動いてもらわないと、明日の命さえ危うい。彼らは甘えやわがままで泣いているのではない。
子どもは、親がいないと生きていけません。
だから、「どうすれば、親に見捨てられないか」を、ひとつひとつ学習しているといいます。
泣きわめけば、親は自分の望みを叶えてくれる。
そして、愛されれば、親は自分を見捨てないことを知る。
では、「どうすれば、もっと愛されるのか?」
愛されるための行動を、常に試行錯誤するようになる。
そうして、自分なりの「愛されるためのライフスタイル」を形成していくのです。
性格とは違い、自分で選びとっているもの。
どんな自分なら愛されるかを基準に、ライフスタイルを選択する
子どもは、非常に優れた観察者です。自らの置かれた環境を考え、両親の性格・性向を見極め、兄弟がいればその位置関係を測り、それぞれの性格を考慮し、どんな「わたし」であれば愛されるのかを考えた上で、自らのライフスタイルを選択します。
たとえばここから、親の言いつけに従順な「いい子」のライフスタイルを選ぶ子どももいるでしょう。あるいは逆に、事あるごとに反発し、拒絶し、反抗する、「わるい子」のライフスタイルを選ぶ子どももいるでしょう。
子どもは、すごい観察力を発揮しているのです。
- 自ら置かれた環境を考える
- 両親の性格を見きわめる
- 兄弟の位置関係を検討する
- 家族全員の性格を考える
じっくりと観察を重ねたうえで、どんな自分でいれば愛されるのかを考え、ライフスタイルを選択する。
だから、泣き虫なのも、反発心が強いのも、無口になるのも。
性格ではなく、「愛されるために」自ら選びとったライフスタイルだといいます。
生きていくためには、自分が「世界の中心」に立たなければならないため、どこまでも、自己中心的になります。
子どもの目的は、「世界の中心」に立つこと
「愛されるためのライフスタイル」とは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです。
子どもは、親に保護してもらわないと生きられないもの。
だから必然的に、「愛されること」「自分が世界の中心に立つこと」が、生きる戦略となります。
注目を集めないと生きられないからであって、決して、甘えやワガママではなかったのです。
子どもは、それでいいのです。
そうしないと生きていけないから。
でも、大人になったら、ライフスタイルを再び選択し直さなければならないのです。
大人になったら、「自分は世界の一部」だと了解しなければならない
すべての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。
それは、「愛される」ではなく、「愛する」への転換です。
「愛されるライフスタイル」から、「愛するライフスタイル」へ転換する
「世界の中心」をやめることが、自己中心性からの脱却
われわれは頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「わたし」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。
「世界の中心」であることをやめる
つまり、「世界の一部」であることを認めること。
具体的には……
- 「その他大勢」であることを受け入れる
- 「特別なわたし」を、あきらめる
「その他大勢」だなんて、イヤだよ。
「その他大勢でいたくない」「特別な存在でいたい」のは、「普通である勇気」が足りないからだといいます。
ありのままの、普通の私でいい
「普通であることの勇気」が足りていないのでしょう。ありのままでいいのです。「特別」な存在にならずとも、優れていなくても、あなたの居場所はそこにあります。平凡なる自分を、「その他大勢」としての自分を受け入れましょう。
- ありのままでいい
- 特別じゃなくていい
- 優れていなくていい
- 平凡でいい
- その他大勢でいい
それでも、自分の居場所はある
それが、大人の生き方であり、「自立」。
自分が中心ではないことを知るのです。
そのためには、「愛される」のではなく、「愛する」を選択することだといいます。
愛されるのを待つのではなく、自分から誰かを愛する
与えられる愛の支配から抜け出すには、自らの愛を持つ以外にありません。愛すること。愛されるのを待つのではなく、運命を待つのでもなく、自らの意思で誰かを愛すること。それしかないのです。
「愛されたい」「ほめられたい」とは、愛を与えられるのを待つ状態ですよね。
愛を待つという、自己中心的なライフスタイルから抜け出すには、「愛される」のではなく、「愛する」こと。
「愛しかない」というのが、「幸せになる勇気」の結論なのです。
そこが、アドラー心理学の実践の難しさです。
「愛すること」は、厳しく、困難で、勇気が試される
アドラーの語る「愛」ほど厳しく、困難で、勇気を試される課題はありません。その一方で、アドラーを理解するための階段は、「愛」に踏み出すことで得られます。いや、そこにしかないといっても過言ではないでしょう。
「愛すること」は、厳しく、困難。
傷つきたくないからです。
しかし、「愛されること」だけを求めるのも、とても苦しく、困難な道。
本当の幸せを感じることができないからですね。
だからこそ。
嫌われることも覚悟しつつ、「愛すること」に踏み出すこと。
それが、「幸せになる勇気」なのだというのです。
まとめ
共同体のなかでどのように生きるべきなのか。他者とどのように関わればいいのか。どうすればその共同体に自分の居場所を見出すことができるのか。「わたし」を知り、「あなた」を知ること。人間の本性を知り、人間としての在(あ)り方を理解すること。
アドラーは、「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と言っています。
そして、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」とも言っています。
つまり私たちは、人間関係の中でしか幸せになれないのだというのです。
具体的には、人間関係の中で、「自分の居場所を見つけること」。
問題は、どのように振る舞えば「居場所が見つかるか」を、私たちは教わったことがないという事実です。
子どもの頃の判断は、どこまでも「自己中心的」。
それは、生きるためには必然だった。
その当時では、賢明な選択でした。
でも、大人になっても同じやり方で生きていては、どうも、うまくいかない。
そのことを誰もが感じつつも、「じゃあ、どうしたらいいの?」ということが、わからない。
知らないからです。
そして、知ったとしても、なかなか受け入れられない。
「三つ子の魂百まで」というように、子どもの頃の選択を捨てることが、難しいのです。
いつまでも、「特別なわたし」でいたいから。
「特別なわたし」とは、心配され、愛されることで、周囲をコントロールする存在。
そうすることでしか、自分の価値を証明できないと思っている、「子どものわたし」です。
多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論(もくろ)みます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとするのです。
そんな大人たちをアドラーは「甘やかされた子ども」と断じ、そのライフスタイル(世界観)を厳しく批判しました。
幸せになれない人は、不幸であることで特別になろうとする。
トラウマを抱えた自分で、特別になろうとする。
傷や弱さで、特別になろうとする。
「特別なわたし」を手放せないだけです。
それがアドラーの言う、トラウマも傷も弱さも、すべては言い訳にすぎないという意味。
だから、弱い人にとっては、ちょっと厳しく感じてしまいますね。
さて、トラウマを否定し、承認欲求を否定し、「甘えた子ども」を脱却したいでしょうか。
トラウマも傷も、言い訳であることを認め、「愛するライフスタイル」を選択したいでしょうか。
選択するのは、あくまでも自分。
ただし。
問題行動の5段階で見たように、症状が重くなってる場合は、ぜひ、専門家を頼ってください。
自分で選択することが苦しくなる場合は、「自分で決めなきゃ」と、思わなくてもいいのです。
ということで。
- 自分は、問題行動の5段階のうち、どのレベルにいるだろう?
- 「愛されるため」ではなく、「愛する」とはどういうことだろう?
- ライフスタイルを再選択する勇気は、出せるだろうか?
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