批判されて落ち込んでたら意見は発展しない【ヘーゲルの弁証法】

弁証法

自分の人格と、自分の意見とは、切り離して考える。

そうじゃないと、意見は発展しない。

 

大事なことは、人格攻撃し合うことではない。

 

あくまでも、真理の追求

 

だから、対立も恐れない。

目的は、より優れた真理を見つけることだから。

 

今まで気づけなかったことに気づくためには、否定が大事。

それが、ヘーゲルの「弁証法」というやり方。

 

弁証法

弁証法とは何か?

テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ

テーゼ:意見

アンチテーゼ:テーゼを否定する意見

ジンテーゼ:洗練された意見

 

つまり。

ひとつの意見は、否定されてこそ、洗練された意見に成長する、ということ。

ジンテーゼは、たんなる折衷案ではない

ジンテーゼとは、たんなる折衷案ではない。

1つ上の次元にレベルアップした、新しい真理のこと。

天動説に対して、矛盾だらけだよ?と否定し、地動説を導くように。

 

だから例えば。

 

・コーヒーがいい

・牛乳がいい

じゃあコーヒー牛乳にしよう

 

これは、厳密にいうと、レベルアップではないので、ジンテーゼとは言わない。

ただたんに、合体させているだけ。

平穏にとりまとめることが目的なら、折衷案で十分だけれども。

 

本気で真理を追求するなら、安易に2つを合体させることではなくって、意見をブラッシュアップさせること。

 

今までの常識を「捨てる」「否定する」

そこから、何かが始まる。

 

弁証法

否定されたら、自分の常識を捨てるチャンス

「捨てる」「否定する」ことから、新たなものが生み出される

哲学は、否定から始まる

哲学者のルソーやデカルトは、常識を否定するために何をしたか?

  • 祖国を捨てた
  • 過去を捨てた

 

哲学するとは、否定すること = 捨てることでもある。

常識を捨てる。

思い込みを捨てる。

今までの考えを捨てる。

「常識をくつがえす」「今の考えを否定をする」というのは、必死の闘争。

デカルトは、祖国を捨てた

「近代哲学の祖」といわれる、デカルト。

デカルトが捨てたものは、祖国だった。

  • 固定観念に満ちた書物を捨てた
  • 学校を捨てた
  • 祖国を捨てた

 

書物には、過去からの固定観念が詰まっている。

デカルトは、書物を、いったん捨ててみたという。

学校での勉強も、常識しか教えない。

常識から飛び出すことで、新しい世界が見えるはずだと、学校も捨てた。

そして、住み慣れた祖国も捨てた。

とにかく、過去の定説にとらわれていると、何も新しいものを生み出せない。

すべては、捨てることから始まるのだ。

ルソーは、学問や文化を捨てた

すでにしみついている常識、風習、文化。

すべて捨てる。

疑う。

  • 最初に思いつく考えを、まず否定する
  • 当たり前の前提を、ひっくり返して考える
  • 世間と異なる考えを、展開する

 

最初に思いつくことは、今までの生活から生み出されたもの。

だから、思いついたことも否定する。

ルソーのアイデアは、否定から生み出されたのだ。

本気で否定できているか?

新たな真理を見つけ出すことを、目的にする。

そのためには、あらゆるものを、捨てる。

それくらいの気持ちで、否定できるのか?

否定するための否定は、ただのクレーム

よく、「アンチ」の意見が出るのは喜んでいいこと、と言われるけれど。

否定するための否定なら、ただのクレームであって、アンチテーゼではない。

 

しかも!

 

否定されて、ふてくされているだけでは、ジンテーゼは出てこない。

まだ気づけていない真理に、気づくチャンス

自分でもいまだに気づけていない、新しい真理。

新しい見方。

否定は、まだ気づけてないことに、気づくチャンスなのだ。

 

「今後どうする?」っていう、建設的な意見を出す。

その目的を忘れてしまうと、ただの言い争いになる。

真理の追求は、人格攻撃とは違う

たいていの場合の否定や批判は、人に対する嫉妬や羨望。

真理を追求したいのであって、人格うんぬんを問うことでは、ない。

そこを意識しないと、意見は洗練されない。

対立が幼稚に見えるときは、人格攻撃になっているときだろう。

「意見」と「人格」とを切り離す

自分自身が否定されたとき、自分の人格とは別モノと見る。

意見・真理を見つけたいのであって、人格は関係ない。

 

相手の意見を否定したいときも、相手の人格とは別モノと考える。

決して、感情的に攻撃することではない。

 

進歩させるべきものは、「意見」であって、誰かの人格ではない。

「意見」と「人格」とは、切り離さなきゃ。

感情的な攻撃ならスルーしよう

スルースキルを身につけることも、意見を洗練するために大事なこと。

 

人格ではなく、「意見」「真理」を考察する立場に立たないと、考えは深まらない。

まとめ

弁証法

否定意見や批判をぶつけられると、ついついこちらも感情的に反応してしまうけれど。

そういうときこそ、大事なことは何かを、しっかり考えよう。

 

感情に感情で反応していたら、真理は見つからない。

 

捨てる

否定する

 

そこから、新しいものが生み出される。

否定も批判も、歓迎すべきものなのだ。

 

ということで。

 

memo
否定されたら、ジンテーゼを生み出そう。

人格を否定されているのではないから、ムダに落ち込まない。

落ち込んでいたら、意見は洗練されない。

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