「わかってほしい」という願いは、達成できると思いますか?
- 誰もわかってくれない
- なんで、わかってもらえないんだろう
- 自分は、常に一人
- 孤独感が消えなくて、寂しい
そんな気持ちを抱いてしまうと、寂しいし、不安になります。
でも。
- そもそも、誰かに理解される必要なんて、あるの?
- 誰かが理解してくれないことは、本当に寂しくて不安なことなの?
- なぜ、他人に理解されなければならないの?
本当に、他人に理解されたいのでしょうか?
自分を本当に理解できる人って……
自分しかいないはず
寂しさとは、究極的には、自分が自分をわかってあげていない寂しさです。
なぜなら、自分以外に、自分を理解できる人は、誰もいないから。
さて、自分をわかってあげるコツとは?
Contents
人生は、自分自身と踊り尽くすダンス
オーウェン・フラナガンという哲学者は、人生は、自分と自分とが踊るダンスなのだと述べています。
親愛なる私へ。最後のダンスは君と踊りたい。うまく踊れなくても気にしなくていいよ。私たちは、今ではお互いのことをとてもよく知っているから。
君と最後に抱き合って踊るときには、人生が有意義だったと感じられるといいな。
ただし、それは単なる陶酔ではなく、本当のダンスだ。人生には必ず意味があるから、一つの人生を2人で分かち合ってダンスがしたいんだ。
そのときには、安らぎ、心地よさ、誠実さ、奮闘の結果を一緒に喜び、分かち合いたい。
一つ覚えておいてほしい。君のことを真に理解し、いつまでも忘れない誰かがいるとすれば、それは私だ。それは私自身のことなんだよ。チャ、チャ、チャ。
葛藤は、自分と自分との戦争
「葛藤」という言葉があるように、私たちは常に心の中で、自分と自分との戦争を繰り広げています。
- 2つの選択肢のうち、1つを選ばなければならない状況
- 植物の「葛(かずら)」と「藤(ふじ)」が絡み合って、なかなか解けないことが由来
自分との戦いに疲れ果てている
ウツになってしまったり、心身ともに疲れ果ててしまったり。
何もやる気が起きなくなったり、決断力が弱くなってしまったり。
そんなとき。
その疲れは、決して外部から来ているものではありません。
私たちの内部での葛藤、つまり、自分との戦争に疲れ果てているのです。
葛(かずら)と藤が、自分の首に複雑に絡み合い、自分の首をしめています。
融合・和解が、人生の最終地点
「自分とのダンス」という意味は、自分と自分との融合であり、自分と自分との和解です。
葛藤している自分を、融合する。
どんな自分も受け入れ、自分を許す。
本当の歓喜とは、自分と和解できたときにこそ、感じるもの
大自然を前にしたときの感動も、いい映画を観たときの感動も、内なる自分が融合するから感じるものです。
私たちは、単純なる外部のものに対しては、感動も苦しみも感じない。
すべては自分の内側で発生しているのであり、内側だからこそ感じるのです。
「外から与えられるもの」というのは、勘違い
外側から何かを与えられたところで、決して感動はしない。
つまり。
誰かに理解されることの喜びなんて、小さい。
でも私たちは、「外から得られる」ものだと、勘違いしています。
得られるはずなのに、得られない苦しみ
その苦しみが、際限なく、承認欲求を引き起こすのです。
原因は、ただの勘違い。
私たちは、他人と踊っているのではありません。
自分と踊っているのです。
自分こそが、最高のダンスパートナー
ダンスの喩えについて、心理学のブライアン・リトル教授は、「ハーバード大学の心理学講義」で次のように述べています。
ダンスの相手が自分だからといって、寂しいもののように見なす必要もありません。私たちは、いつでも自分自身を理解し、受け入れることができます。自分を受け入れるのに、死ぬ間際になるまで待つ必要はありません。
(ハーバード大学の心理学講義)
ダンスパートナーが自分だということは、いつでも・どこでも、「寂しくない」ということです。
「自分というパートナー」からの無視さえ、なければ。
私たちは、自分で自分を無視している。
自分を受け入れないからこそ、苦悩におちいるのです。
他人に理解されないことなんて、どうってことありません。
自分が踊っている相手は、自分。
複数の自分を受け入れ、許す
これからは、自分は複数の自分で構成されていることを知り、そうしている自分を許そうとしてみてください。
(中略)
ときには下手な冗談に笑ってくれ、必要なときに抱きしめてくれたのは、人生を共に歩んできた自分自身です。
どんな自分も受け入れることで、私たちは生きてきたのです。
そんな自分にこそ、乾杯しましょう。
(ハーバード大学の心理学講義)
多面性こそ、人間の真実
私たちは誰もが、一面的な人間ではなく、多面的な人間です。
- オフィスで、バリバリ働いてる自分
- 部屋で、ダラダラしている自分
- 愛する人に、デレデレしている自分
- 強くてかっこいい、キリッとした自分
- 臆病で弱い、ビクッとした自分
- あきらめきって、ダラッとした自分
どれか一つを否定するのでもなく、どれか一つだけを偏愛しすぎるのでもなく。
すべてを受け入れることが、許容であり、「自己受容」です。
だから。
「どれが本当の自分?」と悩むのは、自己否定の証拠
どれも、自分。
なぜなら「わたし」とは、「多面的なわたし」だから。
すべてを受け入れる。
ときには、自分と自分とでケンカしつつも。
殴り合いの山場を越え、仲直りでハッピーエンドに向かうドラマ
友情や愛情を描いたドラマにも、憎しみ合いつつも、最後は和解してハッピーエンドというストーリーが多いですよね。
私たちは、自分の内部で、そういうドラマを描かなければなりません。
最後は、自分との和解でハッピーエンドなのです。
ということは。
自分との葛藤も、ドラマのエッセンスになる
ケンカしながら進んでいってもいいのです。
ドラマの盛り上がりには欠かせませんよね。
ただし、仲直りしてハッピーエンドに向かわないと、延々とつまらないドラマが続いてしまいます。
つまらないドラマや映画を観せられているときの気分を思い起こしてみましょう。
そして、自分でそっと、ストーリーを描きかえてみることです。
多面的な自分を融合させていく過程が、人生ドラマ。
まとめ
他人から理解されないということは、唯一無二の自分である証拠。
もっと、喜んでいいのです。
「その他大勢じゃない」ということだから。
「その他大勢じゃない自分」であるならば、「理解されない」ことは幸せでしかありません。
問題は、その自分を、自分が認めていないことのほう。
私たちが一番求めているものは、自分との融合、自分との一体感です。
自分と和解し、自分で自分を理解しながら生きていく。
手と手をとりあってダンスを踊っていく。
そのなかで、他人がどうこうなんて、気にならなくなっていきます。
むしろ、自分を受け入れた分だけ、他人にも受け入れられるようになっていきます。
自分のことなんて誰にも理解できない。
自分が、自分と踊っていればいい。
それこそ、スペシャルな自分。
「誰にもわかってもらえない」という執着を、捨ててみませんか。
関連記事






参考図書
コメントを残す