つまらない日々をスペシャルにする【ラッセルの幸福論】娯楽の中に幸せはない

静けさ

毎日がつまらないのは、なぜ?

 

  • 刺激が足りない
  • マンネリにおちいってる
  • 非日常感を味わってない
  • 旅行や趣味などを楽しめてない

 

新しい刺激は、たしかにいいです。

新たな視点も生まれます。

 

しかし。

 

あまりに多く旅行する、あまりにさまざまな印象を持つ、これは若い人々にとってはいいことではない。

(ラッセルの幸福論)

 

たくさん旅行したり、さまざまな経験をしたりすることは、実は、いいことではないと、ラッセルは言います。

 

なぜなら。

 

興奮によって満たされた生活は、疲労困憊の生活である。そこではスリルを与えるために、絶えずいっそう強い刺激が必要になり、スリルは快楽の一つの本質的な部分として考えられるようになってしまう。

(同上)

 

刺激や興奮を求めると、疲労困憊の生活になる。

だからこそ、多くの旅行や経験は必要ないのだ、というのがラッセルの幸福論です。

 

さて、どういうことでしょうか。

つまらない毎日は、どうすれば楽しくなるのでしょうか。

 

幸福論」by ラッセル

退屈を回避しようとすると、空虚感が生まれる

比較が、退屈を生む

他人との比較が、不幸の連鎖を生みます。

  1. 今の生活とは別の、快適な生活があることを知ってしまった
  2. 今の生活と、快適な生活との比較から、退屈への不満が生まれる
  3. 退屈への不満を、「興奮」状態によって解消しようとする
  4. 興奮からは、空虚感しか生まれない

 

知ってしまったときが、苦悩の始まり

今まで疑いもせず、それなりに平穏に過ごしていた。

それなのに、あるとき、知ってしまったのです。

自分よりも快適な生活を、している人がいるということを。

「知らぬが仏」というように、私たちは、知りさえしなければ、比較もしないし悩みもしない。

 

「自信のなさ」や「劣等感」も、誰かとの比較によって生じた苦しみです。

 

退屈に堪えられない人は、「興奮」を求める

退屈への不満を、一時的に解消しようとします。

それが「興奮」の追求。

 

(退屈は)興奮を充分勢いよく追求することによって避けられるものだということを知るようになったし、あるいはそう思い込むようになっている。

 

戦争や虐殺さえも、退屈からの逃避、興奮の追求であると、ラッセルは言いいます。

要するに、「悪事」も、退屈から生まれるもの。

私たちは、退屈さえしなければ、悩みもしなければ、悪いこともしないのかもしれません。

 

興奮は、空虚感を生む

あまりに多くの興奮に馴(な)れてしまった人は、たとえばおそろしく胡椒(こしょう)の好きな人に似ている。彼は他の人だったら息の詰まりそうになるほどの胡椒の分量でなければ、最後にはこれを味わうことができなくなる。

 

多量の胡椒(こしょう)で味覚を失うようなもの

個人的には、胡椒よりも唐辛子が好きなのですが、今はたしかに、少量の唐辛子では辛さを感じなくなっています。

興奮を求めるのも、それと同じ。

感覚がマヒしてしまうのです。

 

興奮には、疲労・嫌悪・空虚感がつきまとう

どれだけ好きなことをしていても、楽しい時間は、つかの間。

終わった瞬間から、また次を、求め始めますよね。

だから、興奮を求める人は同時に、疲労・嫌悪・空虚感にさいなまれることになります。

そして、次の興奮を得るためにまた、お金を稼ぐわけです。

 

これでは、何のためにお金を稼いでいるのか、わからなくなります。

わざわざ空虚感を得るためのお金なのでしょうか。

 

興奮を提供してくれる連中は、永久に一つの場所から他の場所へ、彼らの行くところに、陽気とおどりと飲酒をふりまきながら動きまわっている。ただし、どういうわけか、彼らはいつもこうした楽しみを新しい場所でたのしもうと期待しているのだが。

 

退屈から完全に解放されるのは、難しい

働く必要から解放されるに足るだけの金を持っている連中は、退屈から完全に解放された人生を、彼らの理想として描いている。

(中略)

この理想もまた、他のいろいろな理想と同じように、理想家たちが想像するほど実現が容易でないことを、私は恐れるものだ。とにかく前の晩が楽しかったその割合で、あくる朝は退屈なものである。

 

楽しい夜を過ごすと、朝目覚めたときに、ドッと疲れていたり。

なぜか空虚感でいっぱいになったり。

やはり、そういうものですよね。

退屈から完全に解放されるというのは、たしかに、夢物語なのかもしれません。

 

他人との比較から、退屈が生まれる。

退屈を回避しようとすると、空虚感が生まれる。

いったい、どうしたらいいんだ?

 

静かな生活こそ幸せだと、ラッセルは言っています。

 

本当の幸福は、静かな生活の中にある

幸福な生活とは、だいたいにおいて静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさという雰囲気のなかでのみ、真の歓喜は生きることができるからだ。

 

「静けさ」とは、「単調」ということです。

「マンネリ」です。

 

単調・マンネリ・退屈

そうした日々の中でこそ、偉大なものが生まれるのだといいます。

 

幸福には、「退屈に堪える力」が必要

幸福な生活にとって必要なことは退屈に堪えるというある程度の力である。そしてこういう能力こそ青年たちに教えられねばならぬものの一つである。
すべて偉大な書物というものは、退屈な部分を持っている。そしていかなる偉大な生涯もすべて大しておもしろくもない部分を含むものであった。

 

幸福とは、「退屈に堪える力」なのだと、ラッセルはいいます。

なぜなら、偉大な書物も、偉大な人物の生涯も、その大部分は、退屈な部分で占められているから。

退屈な部分がなければ、偉大なものは得られないんですね。

 

気晴らしや道楽などの興奮は、長期的な視野をさまたげる

気晴らしや道楽にハマってしまうと、長期的に考えることができなくなります。

なぜなら、遠い未来のことよりも、目の前の快楽に、強く心を持っていかれてしまうから。

 

大事なことは、目の前の快楽よりも、人生における目的です。

 

退屈に堪える力とは、建設的な目的を掲げる力

なにかまじめな建設的な目的をもっている少年や青年は、その目的を達成するために途中で必要だということを悟るならば、進んで相当の退屈にもみずから堪えるだろう。

 

私たちは、「目的」をもつことによって、退屈に堪える力をつけることができます。

夢や目的がなければ、やはり、暇をもて遊んでしまいますし。

興奮を求めすぎると、目的を見失ってしまいます。

 

やりたいことがない人は、「退屈に堪える力」をつけるために夢や目的を掲げるのも、いいかもしれませんね。

 

不安を取り除く努力よりも、意義の達成に喜びを感じよう

精神科医のヴィクトール・フランクルも、次のように述べています。

 

人間が本当に必要としているのは不安のない状態ではなく、価値ある目標のために努力することである。人間に必要なのは何としてでも不安を取り除くことではなく、意義の達成に使命を感じることである。

 

だから、目先の興奮に流される人は、結果的に、つまらない人生を送ってしまうことになるのです。

 

日々はエキサイティングだとしても、総合的には、つまらない人生。

日々はつまらなく見えたとしても、総合的には、エキサイティングな人生。

どちらを選びたいか、が問われます。

 

偉人の人生は、エキサイティングとは無縁

多くの偉人の生涯もまた、若干の偉大な瞬間をのぞけば、エキサイティングなものではなかった。

(中略)

静かな生活が偉大な人々の特質であったということ、そしてまた、彼らの快楽が外ばかり見たがるような眼の持ち主には刺激的と映ずるごとき種類のものではなかったということ、こうしたことがわかるだろう。

 

偉大な人の特徴とは

  • 静かな生活を送っていた
  • エキサイティングな人生ではない
  • 偉人にとっての快楽は、凡人にとっては刺激的ではない

 

具体的な例。

ソクラテスの場合

彼の一生の過半は妻クサンチッペと静かに送られたものであり、午後には運動をするとか、道ばたで若干の友人に出会ったとかいうことであったろう。

 

カントの場合

カントは彼の一生を通じて、一度もケーニヒスベルクの町から十マイル以上出たことはなかったと伝えられている。

 

ダーウィンの場合

ダーウィンは、世界周航をしてからは、彼の生涯の残りの全部をその自宅で過ごしている。

 

マルクスの場合

マルクスは、二、三の革命運動を煽動してからは、大英博物館で彼の残された年月を過ごそうと決意している。

 

つまり、偉大な人とは、こういう人なのでしょう。

  • つまらないものと比較しない
  • 他人の生活に嫉妬しない
  • 刺激的なものに興味がない
  • けっこう地味に暮らしている
  • 本当に大事な、人生の目的をもっている

 

必ずしも、これがいいとは限りませんが、大きな参考になります。

私たちは、もっと、静かな生活でいいのではないでしょうか。

派手さ・刺激・興奮を追い求めるのは、やはり、他者との比較、他者との競争でしかないようにも思います。

つまりは、「見栄の心」。

承認欲求から脱却するためにも、「静かな生活」を心がけるといいのかもしれません。

本当の歓喜は、大地との接触にある

(退屈に堪えられない人は)花瓶にいけられた切り花のように、一歩一歩、しぼんでいくところの人物にほかならない。

 

  • 退屈に堪えられない人は、花瓶にいけられた花
    • すぐ、しぼむ
  • 本当の歓喜を味わう人は、大地に咲く花
    • 永遠に、大地から吸収する

 

花瓶にいけられた花で一生を終わる人とは、たとえば、お酒・バクチ・異性で興奮を得ようとする人。

その特徴は、「大地と接してないこと」。

 

この場合の「大地」とは、実際の大地のことです。

2歳の男の子は、濡れた大地に歓喜する

2歳の男の子の、こんなエピソードがありました。

とてもわかりやすく、かつ、とても詩的な表現なので、ちょっと長めに引用します。

 

季節は冬であった。万物はじっとりと濡(ぬ)れ、泥にまみれていた。成人の眼には、そこには喜びを与えるものは何一つとしてなかった。だが、それにもかかわらず、この男の子のうちには、不思議なエクスタシイが湧き上がってきた。彼は濡れた大地にひざまずいた。その顔を草の中に持って行った。そして片言の歓喜の叫びを発したのである。彼がそのとき経験しつつあったところの歓喜は原始的で、単純でかつ大きなものであった。こうした生理的要求が満足せしめられるときにはまことに深いものがある。だからこそ、これに飢え乾いているものはほとんど完全に正気とは思えないくらいなのだ。私たちがたとえば格好な例として賭け事のうちに見出すような快楽は、そのなかに大地と接触するというこういう要素をいっさいもっていない。

 

まとめると。

  • 本当の歓喜とは、濡れた大地との出会いのようなもの
    • 原始的で、単純で大きい
    • 不思議なエクスタシイがある
    • 生理的要求が満たされる
  • 賭け事の快楽には、大地との接触がない
    • 飢え、乾く
    • 正気ではなくなる
    • 生理的要求が満たされない

 

普段、私たちが感じている快楽は、きっと、この2歳の男の子の歓喜に比べたら、幻影のようなものなのでしょう。

 

なんで、大地が関係あんの?

 

私たちの生命が、大地の部分だから。

 

私たちの生命は、大地の一部にすぎない

私たちがたといどんなことを考えたいと望むにもせよ、私たちは所詮この地上の人間である。私たちの生命はこの大地の生命の部分にすぎない。そして私たちは、動植物がそうしているように、この大地から私たちの栄養を引き出しているのである。

 

「天空の城ラピュタ」ではありませんが、やはり、大地から生まれた生命は、大地とともに生きるのが一番の幸福。

文明社会での快楽は、大地からかけ離れていることが多く、それゆえに私たちは、しょっちゅう、心の病気を引き起こします。

日光浴や森林浴による自然からのパワーは、健康には欠かせません。

文明的な娯楽については、うまく活用していくという意識をもたないと、振り回されてしまいますね。

 

大地との接触による幸福感は、いつまでも残る

私たちと大地とを接触させるところの快楽は、そのもののなかに深く私たちを満ち足らわせる何ものかを持っている。だからそれが終わりになったとしても、それらの快楽がさきにもたらしたところの幸福感はいつまでも残留する。

 

娯楽から得た快楽は、朝起きたときには、空虚感に変わっている。

でも、自然から得た幸福感は、ずっと消えないといいます。

 

てことは、やっぱり旅行しろってことなんじゃないの?

 

日々の生活の中に、自然からのエネルギーをとりこみましょう。

 

ありふれた日々に、大地を感じる余裕をもとう

ヘレン・ケラーの話をご紹介します。

森の中を散歩していた友人に、何があったかと聞いたら、「別に何も」という返事が返ってきたそうで。

そのことに対する、ヘレン・ケラーの言葉。

 

1時間も森の中を散歩して、『別に何も』ないなんてことがどうしたら言えるのだろうと思いました。目の見えない私にもたくさんのものを見つけることができます。

 

目の見えない私から、目の見えるみなさんにお願いがあります。明日、突然目が見えなくなってしまうかのように思って、すべてのものを見てください。 そして、明日、耳が聞こえなくなってしまうかのように思って、人々の歌声を、小鳥の声を、オーケストラの力強い響きを聞いてください。

 

五感を最大限に使ってください。世界があなたに見せてくれているすべてのもの、喜び、美しさを讃えましょう。

 

マインドフルネスにも通じることですね。

今・この瞬間に注意を向ける。

それだけで、人は、幸福になれるそうです。

 

特に、娯楽による興奮ではなく、大地を感じることです。

日光の強さを感じ、空の青さを感じ、木々のぬくもりを感じる。

自分をとりまく「自然」の姿に目を向ける。

 

そうすれば、どこへ行かなくても、どんな退屈な日々の中にも、歓喜は見いだせるはずです。

 

不変の叡智とは、ありふれた物事に奇跡を見いだすことである。

(ラルフ・ウォルドー・エマソン)

まとめ

同じ道を通っていても、毎日、何かしら変化している。

木々は成長しているし、気温も違う。

同じだと思って油断していたら、気温差にビックリして風邪を引いてしまうことがあります。

日々は、決して、同じではない。

同じだと思っているのは自分だけ。

同じだと思っているから、体もメンタルも、不調をきたすのです。

 

今日の空気は、昨日の空気とはまったく違う。

今日の自分も、昨日の自分とはまったく違う。

 

睡眠とは「死」であるという見方があります。

私たちは毎日、生まれ変わっているのです。

 

今日の自分は睡眠とともに「死」を迎える。

朝の目覚めは、新しい「生」のスタート。

そんな気持ちで、日々を新しい気持ちで生きてみる。

 

いつも会う人とも、新しい出会いだと思って、緊張感をもって会ってみる。

そうすれば、いつもと違う発見がある。

 

個人的な経験としては、ウツ状態から回復できとき、朝、普通に目覚めただけで、うれしくなったものです。

父が亡くなったあと、今日という日は、父親が経験できなかった今日なのだと感じました。

 

もしかしたら、二度と見れなかったかもしれない景色。

二度と会えなかったかもしれない人。

 

今日もこの景色が見られる。

今日もこの人に会える。

それは、実はとても有り難いこと。

 

そんなふうに思えば、同じ場所であっても、新鮮な気持ちで過ごすことはできます。

マンネリとは、「自分が何も変化してないこと」「自分が変化を見つけられないこと」なのです。

ちょっとした変化を見逃さず、じっくりと味わうことが、日々の喜びですよね。

 

哲学者・カントは、生まれ故郷から一度も離れなかったといいます。

「この場所にいれば十分だ」と。

それなのに、「近代哲学の祖」と呼ばれるほどの業績を残したのです。

 

また、歴史学者のトインビー博士は、こう言われています。

「逃走はその場で、動かぬ旅の中でもできる」と。

 

動かぬ人こそ、発明家になるともいいます。

 

特別な場所に行って、特別な経験をしても、何も変化しないならば、意味がありません。

 

孤独をたのしむ力」の著者・午堂登紀雄さんは、「内省力」こそが幸福に欠かせないと述べられています。

 

人間は人とふれあうから成長するのではありません。人とふれあった刺激を自分の内に取り込み、それを自分の意志や価値観とぶつけ、より適切な言動となるよう、自己を変革させるから成長するのです。

実際、たくさんの人と会っていても未熟な人は大勢います。

(「孤独をたのしむ力」)

 

刺激を受けるだけでは成長せず、刺激を取り込み、内省して自分のものにした分だけ、人は成長する。

だから、たくさんの経験をしても、成長しない人もいるし。

少しの経験からでも、大きな成長をする人もいる。

孤独【孤独との向き合い方】寂しさも癒やせる孤独力と内省力

 

また、「勝者の思考回路」の著者・柴田陽子さんは、「特殊な経験は必要ない」と言われています。

 

「勝者の思考回路」を身につけられるか否かを決めるのは、経験の多寡ではなく、そこで「何を思うか、感じるか」だからです。感想の持ち方と持つ量こそが重要なのです。

(勝者の思考回路)

 

勝者の思考回路勝者の思考回路 by 柴田陽子【自分ブランディング】経験よりも大事なこととは?

 

「内省力」も、「感想」も、経験の数・興奮の数とは関係ない。

もっといえば、人生に、数量は関係ない。

「人生の質」こそ、大事にすべきものではないでしょうか。

 

同じ場所にいて、同じ経験をしていても、変化を遂げれば、スペシャルなのです。

 

なお、ラッセルは、興奮を否定しているわけではありません。

 

私はもちろん、興奮に対する反対を極端にまで推し進めるつもりはない。ある程度のそれは健康にはちがいない、だが、他のすべてのものと同じように、問題はそれの分量である。あまりに少な過ぎれば、それに対する激しい欲望を生みだすだろう。あまりに多過ぎれば疲労をかもし出すだろう。

 

多すぎず、少なすぎず。

何ごとも、バランスが大事。

決して、ひとつの出来事や物事に、のみこまれては、いけないですね。

 

そして、自然の恵みを、意識して感じてみること。

 

ありふれた生活であっても、大地の喜びを感じられれば、スペシャルになる。

毎日をスペシャルに。

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