自分とは何者なのか?【14歳からの哲学】内も外もつながっている

哲学

「自分」って誰?

「自分」って何?

 

どれだけ自己分析を重ねてみても、とらえどころのない「自分」という存在。

「自分」がわからなければ、「他人」もわからない。

「世界」もわからない。

 

「自分」と「他人(世界)」との関わりとは、どうあるべきなのだろう?

哲学的な観点から、深めてみよう。

 

「14歳からの哲学」

哲学を学ぶには、この本がオススメ!

自分と他人に対する考え方が、変わります。

 

 

「自分」とは何か?

「体」でも「脳」でも「心」でもない

自分とは、「体」でもないし、「脳」でもないし、「心」でもない。

 

だって。

 

自分が「脳」だとしたら、「脳は私だ」という言い方しか、できないはず。

「○○さんは誰?」と聞かれて、「○○は私です」と答えるように。

「自分とは脳である」とは、答えられない

「自分とは脳である」と考えているのは、はたして誰なのか?

「脳」が、「脳」を客観的に見ているのか?

考えても考えても、説明がつかなくなる。

私たちの人生は、わからないことだらけ

「『自分』とは何か?」という問いには、誰も答えを出せていない。

そして、「『生きる』とは何か?」「『死ぬ』とは何か?」という問いにも、誰も答えられない。

 

要するに。

 

わからない「自分」が、わからない「生」を生き、いつか、わからない「死」を迎える。

 

「わからないこと」だらけの人生を、私たちは生きているんだ。

ひとつだけ、絶対的にわかっていること。

私たちの人生は、わからないことだらけ。

それでも、唯一、わかっていることがある。

 

デカルトの有名な言葉。

「我、思う。ゆえに、我あり」

 

「わからないと思っている自分」は、存在している。

自分が何かは、わからないけれど、「自分」は存在している。

これだけは、確か。

「自分」が存在しているからこそ、「世界」も存在している

自分が、「これが世界だ」と認識しているから、世界は、そこにあるのだ。

「自分」が存在しないのなら、そもそも、何も存在しない。

「自分」が存在していなくても、「世界はそこにある」とは、誰も証明できないからだ。

すべては、「自分」が存在してこそ。

 

つまり。

すべては自分である

では、「他人」って何?

「自分」が見ている光景でしかない

同じように考えれば、「他人」も、存在しない。

自分が、「他人」だと認識するから「他人」なのであって、自分が存在しなければ、他人も存在しない。

すべては、「自分が見ている光景」でしかない。

 

だから……

 

すべては、” 自分の「内」にある概念 ” で、作られている

「内」も「外」もない

自分の「外」にありつつも、自分の「内」にあるもの。

それが「世界」であり「他人」。

 

つまり。

 

内も外もない

 

実は、一体。

地続きの、広い野原のようなもの

たとえて言えば……

広い野原の真ん中に、「自分」が立っていて、丸を描く。

丸の内側が自分、外側が世界(他人)だよと、言ってるようなもの。

 

実は、内も外もなく、地続きの連続した平面でしかない。

境界線を描いているのは、あくまで自分。

頭上にある星と、内なる道徳律は一体である(カント)

世界とは、自分

「自分」が存在しているから、すべてが存在している。

すべては、自分。

世界とは、自分。

内も外もない。

外も内も、等しく自分の中にある

哲学

 

ああ、いかにして感歎しても感歎しきれぬものは、わが頭上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律。(カント)

 

カントがもっとも感嘆したものとは。

  • 自分の頭上にある、星々の輝き。
  • 自分の心の内にある、道徳律。

 

これが、哲学の始まり。

 

私は、この二つのものを現に目の前に見いだしていて、その両者の存在のいずれをも私の現実の意識の内にそのまま結びつけていくことができるのである。

 

自分の外にあるものも、内にあるものも、すべてが自分の意識の中にある。

外にあるものと、内にあるものは、つながっているのだ

外にあると思っている星の輝きも、自分の内で輝いているものも、同じ。

 

つまり。

どちらか一方だけを、よくすることは、できないということだ。

内をよくしたいなら、外をよくする。外をよくしたいなら、内をよくする

内も外もない。

だからこそ、自分をよくしたいなら、世界をよくする。

他人をよくする。

 

世界・他人をよくしたいなら、自分をよくする。

 

「自分のことだけ」を考えるわけには、いかないのだ。

「他人だけ」に変わってほしいというのも、無理なんだ。

 

なお、カントの言葉をもう少し深ぼってみると、「自分」という存在は、崇高でもあり無力でもあることが見えてくる。

崇高でありつつも、無力な自分

外から見た自分と、内から見た自分

自分とは何か?

  1. 「私の頭上に輝く星々」から見下ろされた、無力な存在
  2. 「私の心の内なる道徳律」をベースにした、崇高な存在

自分は、無力な存在

自分は何も知らない。

あまりに無力な存在。

大自然を目の前にしたとき、とてつもなく謙虚な気持ちと、尊敬の念が生じることがあるだろう。

それこそが、「無力感」。

反対に、「万能感」を持ちすぎると、人は衰退する。

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自分は、崇高な存在

一方で、人間は、崇高でもある。

一人ひとりの命が、どれほどかけがえのないものか。

どれほど素晴らしいものか。

存在しているだけで価値のある、愛すべき自分。

 

無力でもあり、崇高でもある自分。

だから、自分の意見は、自分で発展させる。

それだけの「内なる道徳律」を秘めているから。

わからないけれど、問い続けていく

すべては、自分の「内」で生まれている。

内も外もない。

自分も他人もつながっている。

そして、「自分」という人間を、決して解明することもできない。

「なんとなく」で終わらせずに

あまりに不思議な自分という存在を、「なんとなく」で終わらせない。

いったい、どういうことかと、丁寧に問いつづける。

問いつづけることが、「哲学」である。

まとめ

哲学

「内も外もない」ことを実感すると、自分の言動に責任感が出てくる。

むやみに、人を批判したり、責めたりする気持ちも、なくなってくる。

すべては自分の内で生まれるものだから。

世界は、自分だから。

自分の言動で、世界のあり方が変わっていくのだ。

 

無力でありつつも、偉大な自分。

偉大でありつつも、何もわかっていない自分。

 

何もわからないのだけれども。

それでも、問いつづけていくしかない。

自分をよくすることが、世界(他人)をよくすることに、つながるから。

 

星々の輝きも、内なる道徳律も、厳然と自分の中に存在するのだ。

 

 

ということで。

 

memo
自分とは何者であるか?

それは、誰にもわからない。

ただし、自分の内側と、外側にある世界や他人は、つながっている。

自分なくして、世界も他人も存在しないから。

 

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