「火垂るの墓」は人間の弱さを描いた映画【性弱説】環境のせいにしていい、でも後悔のない生き方を選ぼう

火垂るの墓

環境のせいでも他人のせいでもない

「火垂るの墓」は反戦映画ではなく、反省映画

実は、反戦映画ではなく。

かわいそうな兄妹の話でもない。

 

大人に逆らった、逆ギレする頑固な子どもが、どんな末路を歩むのか。

そのことを、残酷なまでに描いた映画。

 

「誰も理解してくれない」と、自分をあわれみ、周囲をうらみ、自分勝手な行動をとった結果、妹を死に追いやってしまった。

 

妹は、戦争のせいで死んだのでは、決してない。

環境のせいでも他人のせいでもない。

どこまでも、主人公の、醜い心のせい。

 

原作者の実体験にもとづいた、本心が吐露されたストーリー。

反戦ではなく、反省の物語。

ずっと消えない罪悪感の話。

妹が死んでホッとしたのが本心

妹が死んだときも、主人公は悲しんでなかった。

食欲もあり、雑炊を食べていた。

妹が死んでホッとしたというのが、本心だったらしい。

思いやりは、たくさんあった

近所の農家の人は、おばさんに謝って家に戻ったほうがいいと、やさしくアドバイスしてくれた。

ラストシーンでは、ぐったりした主人公に、見知らぬ人がおにぎりを置いてく場面が描かれている。

 

見渡してみれば、人々の思いやりは、たくさん、あったのだ。

自己中になると、身を滅ぼす

自己中になり、思いやりを見失うと、大切な人を守れないどころか、自分も生きていけない。

 

それが現実だよ、と。

自己中では身を滅ぼすよ、と。

「美しい」なんて、一瞬

映画には描かれていないけど、泣きじゃくる妹を殴ったり。

食べ物を自分だけで独り占めしたり。

現実は、醜かった。

亡くなった後だからこそ後悔や悲しみが出てくるのであって、途中過程は、醜い感情が現実。

 

「美しい」なんて、一瞬。

腹黒さなんて、いっぱい、出てくる。

人間らしさを取り戻せるか? 自分を修正できるか?

現実は醜いけれども……

醜いのが、現実。

弱いのが、人間。

 

でも、はたと立ち止まり、人間らしさを取り戻せるかどうか。

自分で気づいて、修正できるかどうか。

やはり思いやりがわからないと、生きていけない

人の思いやりがわからないと生きていけない。

私の父親が最期の最期に残した言葉は……

「俺は、人の気持ちのわからない人間だった」

 

何度も思い出すんだけど、何度も忘れてしまう。

今、身の回りの思いやり、何があるだろう。

何もわかってないな、と感じる。

 

人間らしさ、取り戻せるだろうか?

いや、取り戻したいのだろうか?

まとめ

私自身も、父親が亡くなったあと、悲しみは尽きませんでした。

やさしくできなかった後悔は、野坂さんと同じく、いつまでも湧き上がってきます。

でも、もう一度同じ状況になったら、はたしてどうか?

きっと、また同じことをしてしまうのでは。

 

「火垂るの墓」のラストシーンで描いているのも、実はこれ。

 

清太はまた、同じことを繰り返すのだ。

たとえ、生まれ変わったとしても。

 

その醜い自分、どう受け止め、どう修正するのか?

本気で修正できるのか?

 

戦争の醜さではない。

人間こそ、醜い。

そこを考えることが、この映画のコンセプト。

 

ということで。

 

memo

思いやりを、見失ってないか?

周囲のやさしさ、受け止めているか?

自分をあわれんでばかりでは、身を滅ぼす。

(2020414記)

1 2

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です