ボヘミアン・ラプソディ【フレディマーキュリーの】成功と苦悩|意味を考える

ボヘミアン・ラプソディ

歌を聴くと、「この歌の意味は何だろう?」と考える。

歌に限らず、小説にしてもドラマにしても、「作者は、どんな意図でこれを作ったのか?」が気になります。

 

けれども。

クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーはこう語ります。

 

自分の作品を分析しろだなんて言われたら、まともな詩人ならこうとしか言わない。

『君がそう思うなら、ディア、そうなんだろうね』 

僕の答えも同じだよ。

(フレディ・マーキュリー)

 

歌の意味なんて、聴く人が好きに解釈してほしい、と。

 

だからクイーンは、歌の意味については、一度も語っていません。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも、明確な歌の意味は描かれていませんでした。

 

それがまた、よけいに想像力をかきたてられ、さらに気になってしまう。

 

人生とは、そういうものかもしれません。

わからないから、気になる。

 

知ってしまったら飽きちゃうよな。

 

「意味」を考えるとは、「答えを出すこと」に目的があるのではない。

それが、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観た、一番の感想でした。

 

人生とは、「わからないものへの探究心」で成り立っている。

知ってしまったら終わり。

 

そんなわけで、クイーンの魅力を考えてみたいと思います。

【クイーン】成功の3つの秘訣

1.積極的にヒット曲をねらう

クイーンがほかのロックバンドとは違ったのは、積極的にヒット曲を狙って書こうとしたことだ。世界一のミュージシャンだって、世界中の人々が口ずさむような三分半の至宝の一曲を作るのは大変なことだ。それができて、しかもミュージシャンとして優れていたら、それはまさに大当たりだ。そこにクイーンが大成功した秘密がある。

(フレディ・マーキュリー 孤独な道化)

 

自分がやりたいことと、周囲から望まれることと。

どっちがいいのかと葛藤することがあると思いますが。

 

クイーンは、積極的にヒットをねらった。

だから大成功した。

 

売れないミュージシャンにありがちな、「自分の音楽を創りたいんだ」というこだわりではなく。

「喜ばれるもの」に、こだわる。

 

かといって、「自分を捨てる」わけではなく。

「自分のこだわり」は大いにある。

 

考えてみれば、飲食店にしても。

「みんなが食べたいもの」を出すから、売れるわけです。

でも、「味へのこだわり」は、ちゃんとある。

 

その、絶妙なバランスが必要なんだろうと感じます。

 

2.時代を読み取る

クイーンは時代の精神を読み取っていた。音楽ファンが何を求めているかに耳を傾けて、そのさらに一歩先を行った。

 

大事なのは、いつだって、ファンの存在。

考えてることは常に、「みんなに喜んでもらうため」。

そこにこだわるのが、天才にとっての「こだわり」なんですね。

 

やはり、時代を読む人は強い。

クイーンの成功は、偶然ではなく、先見性のたまものです。

 

3.「見られる」ことを意識する

今日は気取りだと見られているものが、明日は芸術として見られることはしばしばある。大事なのは、見られることだ。

(フレディ)

 

「表面を着飾る」という意味ではなく。

「伝わるかどうか」という意味の、「見られる」です。

 

伝わる方法を選ぶ

フレディが『ボヘミアン・ラプソディ』でなし遂げたことを、マイケルは『スリラー』で再現した。つまり、偉大なアーティストというのは心得ているものなんだ。本能的に、マルチメディアなんだ。フレディの才能は、自分が手がけた歌や、歌がどのように聞こえるかということを理解していただけじゃなく、観客の心に伝わるような、同時代的なやり方で歌を届ける方法を理解していたということなんだ。

(マイケル・ジャクソンの広報担当)

 

見られたいならば、伝わる方法を選ぶこと。

「やりたいことを、やろう」とは言うけれど。

自分の「やりたい」だけを通していても、きっと見向きはされない。

 

承認欲求も、突き抜けてしまえば「価値」に変わるのかもしれません。

本当に承認されたいのであれば、究極までこだわる。

そんな「究極さ」のない人に限って、「誰もわかってくれない」とウジウジしているのではないでしょうか。

 

たしかに、究極までこだわる徹底さは、なかった。

 

究極までこだわった結果が、ライヴエイドの成功でもあります。

ライヴエイドで不動の帝王に

ライヴ・エイドはフレディのものだった。彼みたいな人間はほかにいない。僕たちの音楽がフレディの中を流れているのが見えるような気がするくらいだった。彼を無視することはできない。ユニークで特別な人だった。あの日会場にいたのはうちのファンだけじゃなく、みんなのファンだった。フレディは本当に全身全霊で歌いきったんだ。

(ブライアン)

 

映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、「ライヴエイド」というチャリティーコンサートの場面で終わります。

 

ライヴエイドとは
  • 1985年7月13日に行われた、20世紀最大のチャリティーコンサート
  • 目的は「アフリカ難民救済」、スローガンは「1億人の飢餓を救う」
  • 大物歌手が無報酬で、持ち時間20分で歌い、募金をつのった

 

映画でも一番の感動をさらったシーンですが、実際もそうだったようです。

たくさんの大物歌手が出演した中で、クイーンのパフォーマンスが最高だったと、誰もが認めています。

映画での感動は、リアルな再現だったのですね。

 

クイーンのパフォーマンスは偉大なライバルたちを押しのけて、もっともエキサイティングで、もっとも感動的で、もっとも記憶に残り、もっとも色あせないものだった。

 

バックステージに衝撃が走ったのがわかった。口笛を耳にした犬みたいに、ミュージシャンたちが顔をモニターに向けたんだ。クイーンはショーをかっさらった。あの日、クイーンは高みにふたたび上り詰めて、二度とその地位を失うことはなかった。

 

クイーンの公演全704回のうちでも、ライヴ・エイドはクイーンを象徴する最高の瞬間だった。小細工をしなくても、照明装置や音響装置、スモークなどの特別効果、それどころか天然の舞台効果である夕暮れすら取り払ってしまっても、自分たちの力を証明するのに与えられた持ち時間が20分もなくても、クイーンは世界をロックする力を失っていない、不動の帝王であるということを証明する最高の機会だった。

 

あの日、僕は息をするのも忘れてフレディのパフォーマンスに見とれた。その場に居合わせたすべての人々を魅了したんだ。完全な一体感さ。そんなことを成し遂げたのは、後にも先にもひとりもいない。そもそもそんなことができるのはフレディだけなんだと思う。

 

 

そんな一体感を作り出せた理由は、3つ。

  1. 「究極のショーマン」という意識
  2. 準備を怠らない
  3. 使命感

 

1.ステージ上では、究極のショーマンになる

二番手に甘んじるくらいなら、やめる

ステージに上がると僕は違う人間になる。”究極のショーマン”に変身するんだ。それは、そうならないといけないからね。二番手に甘んじるくらいなら僕は止める。気取った歩き方。マイクスタンドにも掴み方がある。そういうのが好きなんだ。

(フレディ)

 

フレディのパフォーマンスは、すごいです。

心を動かされる。

 

それは、「究極のショーマン」という意識。

すなわち、「プロ意識」ですね。

 

どうせ「承認欲求」を捨てられないのなら、そこまで捧げてみたいものです。

中途半端な承認欲求だから、タチが悪いんだと感じさせられます。

 

自分がどういう人間かは考えない

自分は舞台に上がるのにふさわしくない人間だなんて素振りは決して見せないこと。絶対に謝っちゃダメだ。観客はきみを観に来たんだから、ある晩ちょっとくらい調子が悪くたってかまやしない。

(フレディ/後輩へのアドバイス)

 

見ている側からすれば。

ステージの人が、実際にどういう人かは、極論としては関係ないですよね。

あくまでも、見る側が元気をもらえれば、満足なわけですから。

 

「本当の自分はこうじゃないのに」と悩むのは、見てくれている人を無視している。

「こんな自分」と悩んでいても、何もできない。

 

どんなときも。

どんな自分であっても。

それでもステージに上がる。

 

ただし。

ステージを降りたら、普通に戻る

街中で見かけた時に、ステージ上の僕を期待されると辛いんだ。あのビッグなフレディを。僕は彼じゃない。もっとずっと静かな人間だ。表向きのパフォーマーの顔と私生活は切り離そうとしてる。多重人格みたいになっちゃうからね。それが僕にとっての代償なんだろうな。といっても誤解しないでよ、僕は哀れ気の毒なお金持ちってわけじゃないんだから。音楽が僕の原動力だ。僕は本当に恵まれているよ。

(フレディ)

 

これも、プロ意識で必要なことです。

いつまでも、ステージの上にいるのだと勘違いしないこと。

きちんとバランスをとらないと、おかしくなります。

 

それは、ハーバード大学の心理学教授も述べています。

心理学と学生をこよなく愛しているからこそ、講義では外向的に振る舞える。

でも、講義が終わったら一人になって静かに過ごす、と。

 

仕事上の自分と、プライベートでの自分は、違ってていいのです。

むしろ、違うほうが、自然。

 

 

仕事のときは、究極のショーマンだと思ってみると、いいかもしれない。

 

2.楽しんでもらうための準備を怠らない

クイーンはあの週、ロンドンのユーストン・ロードにあるショー・シアターで、真剣にリハーサルを重ねたんだ。ほかのバンドはぶっつけ本番だった。

 

入念な準備。

プロになっても、練習を欠かさないのは、さすがです。

 

なお、ほかの歌手は、新曲を発表する人も多かったといいます。

でも、新曲を聞いても、盛り上がれないのは当たり前ですよね。

 

みんなが知っている曲をやる

みんなに楽しんでもらえるように、みんなが知っている曲をやるんだ。

(フレディ)

 

自分の売り込みが目的なのではなく。

どこまでも、「楽しんでもらうため」。

 

もちろん、それは、チャリティーコンサートという大義名分にも賛同したからでした。

 

3.使命感

餓死していく人を無視することはできない

餓死しようとしている人々が世界にいるのだから、それは人類全体の問題としてとらえるべきだ。時に自分は無力だと感じることもある。でも、今回は僕にもできることがある。

(フレディ)

 

フレディは、アフリカで生まれ、その後はインドで過ごしています。

だからこそ、自分が、周囲の子供よりも恵まれた生活をしていることを痛感したそう。

それでも、何もできない無力な自分。

 

「歌ならできる」という使命感が大きかったのですね。

 

餓死する人がいることを、全世界に知らしめたい

金持ちだから罪悪感をおぼえるというわけじゃない。僕がライヴをやらなくたって、この問題は変わらずに存在し続ける。悲しいことに、いつまでも有り続ける問題なんだ。ライヴ・エイドの意義は、こんなことが起こっているという事実を全世界に知らしめることだ。

(フレディ)

 

無力だと思っても。

何にも変わらないと思っても。

それでも、自分にできることをする。

自分にできることで貢献する。

 

そんな姿が、刺激になります。

 

魂を求めたフレディ

ビートルズを抜いたクイーン

彼の死後、「信じられないことに、クイーンは英国でのアルバム売上でビートルズを抜いた」

 

積極的にヒットをねらい、究極のショーマンになり、観客を楽しませるために準備を怠らない。

そんなクイーンが、ビートルズを抜いた。

 

才能があったことはもちろんですが。

やはり、ひたむきな情熱という魂が、人々の心を打ったのでしょう。

 

謝ることもなければ、同情を求めることもなかった

フレディは、スーパースターの陰にある彼の魂――幻想を追い求めた、どこまでも人間らしいひとりの男だ。それは批判も買ったが、何百万人の人々を喜ばせもした。フレディは自分のやり方を貫いた。謝ることもなければ、同情を請うこともなかった。自分を形作る矛盾の数々にがんじがらめになっても、歌が彼を解放してくれた。

 

自分のやり方を貫く。

謝らないし、同情も求めない。

批判も多い。

 

それでも、たくさんの人を喜ばせる。

 

「自分のやり方を貫く」とはいっても。

ヒットをねらったり、常に観客を楽しませることを考えていたり。

「ショー」という次元では、他人目線。

 

そのうえで。

根底には、「自分の魂を解放したい」という情熱が冷めない。

 

魂を解放するって、どういう意味だ?

 

フレディのルーツに、理由があります。

 

フレディ・マーキュリーは、アイデンティティに苦悩していた

複雑なルーツによる、孤独感

フレディーのルーツは複雑です。

  • 両親はインド人
    • 当時のインドは、イギリスの占領下だったため、イギリス国民
  • 人種はパールシー
    • 「ペルシャ系インド人」とも呼ばれる
    • 昔、ペルシャ(現イランあたり)でイスラム教徒に迫害されたゾロアスター教徒が、インドに逃げた
  • 父親は、植民地政府の会計係として、ザンジバルへ赴任した
    • 当時、イギリスの保護国だったアフリカ・タンザニアにある島
  • ザンジバルで、フレディは産まれた
  • フレディが8歳のとき、ザンジバルの教育水準が低かったため、インドの学校へ送られた
    • フレディは8歳〜18歳まで、インドで一人で過ごす
    • いい教育を受けさせるためだったが、フレディには、親に見捨てられたという思いが残っている
  • 18歳のとき、フレディ一家はイギリスへ移住
    • 植民地が解放され、ザンジバルではアフリカ人勢力が強くなったために、命からがら逃げた

 

これではたしかに、アイデンティティの確立に苦しみそうです。

 

インド人でありつつも、イギリス国民。

しかも、もともとのインド人ではなく、ペルシャから逃げてきたパールシーの子孫。

でも、生まれはアフリカ。

8歳~18歳という多感な時期に、親元から離れ、インドの寄宿舎で過ごす。

今度は、アフリカが解放されたことで、家族と一緒にイギリスへ。

祖先の時代からずっと、逃亡と移住続きの人生です。

 

自分の過去を語ろうとしなかった

彼は自分の過去を隠していた。本当の名前すら教えてくれなかった。

(クイーンの最初の広報担当者)

 

映画のなかでも、自分のルーツを友人や恋人にも話そうとしていませんでした。

身近な人に隠すほど、苦悩の原因となっていたのでしょう。

 

親との確執

両親とは毎年一度、一ヵ月の夏休みに会うだけだった。ふたりとの間に距離が生まれたのも無理はない。それは、丁重だが感情のこもらない両親宛の手紙にも明らかだった。泣き言を言わずに我慢しなさいと教わってはいても、家から遠く離れた少年が、親が恋しくなっても家に電話をかけることすらできなかったというのは、さぞかしさみしく心細かったことだろう。

 

両親は厳格なバラモン教徒で、保守的な性格。

愛情表現も下手だったようです。

生まれたときから乳母に育てられ、両親に抱きしめてもらったこともないそう。

 

そのうえで、一番、親が必要な時期に、一人だけ、インドに送られてしまった。

いくら愛情からだったとはいえ、それまでの積み重ねがなければ、捨てられたと思ってしまうのも当然といえそうです。

8歳のときですから。

 

フレディの親は、小さなフレディを船に乗せて、何千マイルも離れたところの学校にやったんだ。当時は60日もかかる船旅だ。フレディはたったの8歳だったんだよ。想像できるかい? 心の一番奥深いところでは、そんな経験、乗り越えられたはずがない。

(音楽評論家の話)

 

映画のなかで、両親とのコミュニケーションにぎこちなさがあるのは、こんな経緯があったからです。

 

愛情の葛藤

子供時代に愛情をあまり受けてこなかったために、自分は「大人になってから肉体的な愛に異常に固執してしまう」ようになったのだろうか、とフレディはたまに考え込んでいたそうだ。

 

フレディの恋愛遍歴が複雑なのは、アイデンティティの混乱と、親からの愛情不足が影響しているのかもしれません。

 

クイーンの歌には、どこか寂しさがただよっていますよね。

心の底からの叫びだからこそ、人の心を打つのでしょう。

 

とはいえ。

フレディは、とても静かで謙虚な性格で、周囲からは愛されるキャラだったようです。

 

謙虚で好かれるタイプ

この人は何て矛盾の塊なんだろう、とあの晩私は思った。ステージ上ではあんなに傲慢なのに、ステージを降りるとこんなに謙虚で気取りがない。

 

ステージの上では、豪快なパフォーマンスを発揮するフレディ。

でも実際は、物静かで内気だったそうです。

 

どれだけ内気かというと、ライブ後にファンと話そうと思っても恥ずかしくて何も話せないくらいだそう。

 

静かな性格

フレディは静かなヤツだった。時々発作的にクスクス笑ってたけどね。そういう時は、あの大きな歯を隠すために手を口元に持っていくんだ。とってもいいやつだった。心優しくって気を遣う。どこも嫌なところがなかった。フレディがあんな大成功を成し遂げて、心から喜んでいた仲間は多かったよ。

(学生時代の友人)

 

心から喜んでいた仲間が多かったという事実は、友だちに恵まれるタイプだったということですね。

 

映画でも描かれていましたが、なぜか人をひきつけ、人が寄ってくる。

それは、「有名になったから」だけではなく、もともとの素質なのでしょう。

 

思わず世話を焼きたくなる

ステージ上での存在が大きすぎるので、実際に会った時にも圧倒的な存在感を持つ人間なのかと思ってしまう。しかしフレディはそうじゃない。その逆で、とても小柄で、かわいらしいほど少年ぽい人だった。思わず母親のようにあれこれ世話を焼きたくなってしまう。

 

そんなにも皆から愛されているのに、フレディ自身は、孤独を乗り越えることができなかった。


「愛されている事実」と「孤独で苦しむ」ことは、やはり一致しないのですね。

 

なぜ人は、愛されても孤独感に苦しむのだろう?

 

たくさんのコンプレックスを抱えていると、何をしても自信が持てないもの。

 

コンプレックスのかたまり

コンプレックスへの苛立ちから、たまにフレディは怒り狂うことがあったのだろう。なぜか突発的に機嫌が極端に悪くなることがあり、冷たいどころか残酷にもなり、強烈な嫌味やいわれもなく悪意のある言葉を投げかけることがあった。

 

  • 自分のルーツへのコンプレックス
  • 両親から見捨てられたコンプレックス
  • 肉体的な愛に固執してしまうというコンプレックス
  • 自分の容貌(ペルシャ系の顔、出っ歯など)へのコンプレックス

 

やはり、たくさんのコンプレックスを抱えていると、感情のコントロールはきかなくなるものです。

そして、そのコンプレックスは、どれだけ成功しても消えなかった。

 

被害妄想に苦しむ

被害妄想に苦しんでいた。つまり、陰では人に笑われているのではないか、本当のところ自分は滑稽な人間なのではないか、と悩んでいたのだ。これは、最期までフレディを何より苦しめた苦悩の種だった。

 

最期まで苦しめた。

つまり。

ずっと乗り越えることができなかったのです。

 

やはり、「成功」は関係ないのかもしれません。

 

いつまでも自信がない

あれだけ大成功しているのに、驚くほど自信がないように見えた。

 

だから、豪快に遊んで、享楽にふける。

 

けれども。

享楽にふけっても、快楽は得られない

何にでも過度にふけったが、それは彼が倦(う)んでいることを証明しただけだった。何でも金で手に入るものは手にすることができたが、快楽を得ることはどんどん難しくなっていた。

 

本当の幸せは「快楽」では得られない、ということを考えさせられますね。

 

カリスマ性があっても、壊れやすかった

フレディを見ているといつも胸が痛んだのは、どんなに力強く大胆でカリスマ性にあふれていても、どういうわけか、それでもとても壊れやすくて、まるで純粋無垢のように見えたんだ。

 

ひとたび愛情に飢えてしまうと、なかなか乗り越えられない。

フレディの人生を考えると、心が痛みます。

 

なんで、そんなに壊れやすかったんだろう?

 

やはり、家族への葛藤が大きかったのではないかと思います。

 

フレディの孤独感がうまらなかった理由とは

決して故郷に受け入れられない寂しさ

彼は両親と妹を心から愛し、敬っていた。また、正統派のゾロアスター教徒が同性愛の弾圧を支持していることも知りすぎるほどよく知っていた。おそらく、フレディが長年の間自身の性向を抑えようとしたのも、ここに一番の原因があるのかもしれない。

 

自分の性質は、故郷では絶対に受け入れられないもの。

それだけでなく。

両親をも否定することになる。

 

文化的な背景と、宗教的な背景と、親を敬う心と。

いろんなものが入りまじっている。

これは、簡単には想像することができないですね。

 

信じている教えを破る罪悪感

家族が信じる教えを破った男が故郷で歓迎されることはありえなかった

 

宗教に限らず。

好きでしょうがないのに、従えないとき。

人は葛藤するし、苦しみます。

 

過去を振り返れないツラさ

時に、人は過去に戻ろうとすることがある。過去の再訪。静かに昔を懐かしんで、大人になった自分をなぐさめるのだ。フレディにはそれは許されていなかった。常に、何か別のものでその穴を埋めなくてはならなかった。

 

過去を振り返っちゃいけない、とはいうけれど。

ときには、思い出にひたることで癒やされることもあります。

でも、それをまったく禁止されてしまうのは、やはりツラいですね。

 

だから。

過去を振り返ってクヨクヨするとき。

振り返れること自体が幸せなんだと、思ったほうがいいですね。

 

とはいえ。

フレディにとっての不幸中の幸いは、音楽の才能があったことです。

 

孤独感が創作になった

悩みを創作のインスピレーションに変える

その惨めさが、彼の創造性の鍵となっていたのです。幸せな人は何もする必要も、何も創りだす必要も感じないものです。幸せな人々は自分の人生に満足し、物事に満足しています。フレディは常に苦しみもがいていました。メアリーに対する思いがその原因ですが、それが創作のインスピレーションでもあったのです。

 

フレディから学ぶことは。

どんなに苦悩が深くても。

乗り越えられないコンプレックスだとしても。

それを、創作のインスピレーションに変えるということです。

 

能力として発揮してしまえば、多くの人に喜ばれる結果につながります。

 

悲しみが天才を作り出す

悲しみが世に送り出した天才も多い。深い悲しみの底で自分自身を深く考察した結果である。

(思考は現実化する)

 

ただ、そこまでの才能がない人のほうが多い現実を考えると。

コンプレックスをどうにもできないまま、ただ苦しむだけ、という人生も多いことでしょう。

 

それでも。

自分の生きた証を、何か残す。

何かで創作してみる。

 

そんな希望も与えてくれる人だと思います。

 

ただ、フレディに音楽の才能がなければ、どんな人生を送っていたのだろうと思うと、せつなくなりますね。

人はなぜ、意味を求めるのか?

曲が好きな理由さえ、自分でも知らない

「なぜこの曲が好きなの?」。そんな質問を受けたとき、口から出てきた「理由」の大半は作話です。

真の理由は自分ではアクセスできない無意識の世界に格納されています。

(「自分では気づかない、ココロの盲点」より)

 

本当の理由、本当の意味は、「無意識の世界」にあるもの。

だから。

どんなに考えたところで、永遠にわからないのかもしれません。

「無意識」ですから。

 

自分の奥から、予想もしなかったものが出てくる

宮崎駿も、このように語っています。

(映画作りとは)自分でもわからない、脳みその奥の方のふたを開けて、なぜこれが出てきたかわからないっていうようなものを出す作業なんです。

(ジブリの教科書12)

 

映画にしても歌にしても。

はっきりとした明確な意味や理由はなく。

創っていたら、こうなった。

だから、意味なんて聞かれても答えられないもの。

それこそが、クリエイター側の本音なんですね。

 

「ボヘミアン」とは、「自由気まま」

現実から逃げることはできない。

目を開いて、空を見上げてよ。

俺は、ただの貧しい奴。

同情はいらない。

だって、ふらふらと

適当に生きてるだけだから。

(ボヘミアン・ラプソディの歌詞)

 

「ボヘミアン」という言葉自体が、自由気ままで、適当という意味を含んでいます。

 

ボヘミアンとは
社会の習慣に縛られず、芸術などを志して自由気ままに生活する人。

 

つまり。

そもそもが、意味を固定する性質の歌では、ないわけです。

 

どっちでもいい

ボヘミアン・ラプソディの歌の締めくくりはこう。

いいこともあれば

悪いこともある

僕にはたいしたことじゃない

どっちにしても風は吹くのさ

 

フレディ・マーキュリーの心情も、まさに、こうなのでしょう。

「どっちにしても風は吹く」と。

 

正解を求めるよりも、もっと自分の想像力を

聴く人が自分の解釈をしてくれたほうがうれしい――自分の好きなように読んでくれたほうが。

(フレディ・マーキュリー)

 

作者に聞きたくなるのは、仕方のない心情とも言えますが。

 

たとえば自分自身だって。

「なぜ、そうしたの?」と聞かれても、やはり答えられないし。

聞かれるのがイヤになるときが、ありますよね。

 

アレコレ聞かれて、分析されて解釈されるのは、誰でもイヤなものです。

 

意味を聞かれたくない

「これってこういう意味、それともああいう意味、ということしかみんな聞きたがらないんだ」とフレディはため息をついた。

 

私たちは、どこかに「正解」があると信じていて、正解を教えてほしいと求めすぎ。

もっともっと、自分の想像力のままに考え、解釈する力が必要なんだろうと、感じます。

 

意味はあるけど、固定はしない

答えは決してわからないと思うし、わかっていたとしても多分僕は教えないと思うよ。自分の曲がどういう意味かなんて、当然、僕は人に教えたりしない。

教えてしまうのはある意味歌を壊してしまうことだと思うんだ。

(ブライアン・メイ)

 

歌詞には、やはり、作者の意図はあります。

 

それでも。

それを語らないということは、「固定して生きたくない」という生き方を、よく表していると思います。

 

私たちも、何かの行動をするときには、やはり目的や意味はあるもの。

けれども、そんなにガチガチに固めるのではなく、「結局はどっちでもいい」という柔軟性もあわせもっていきたい。

 

「ボヘミアン」という意味の解釈を、自分なりにしていくことで、自分の人生を振り返ることもできます。

 

結局は、「好き」だけでいい

愛する人のため、出世のため、お金のため、教養のため、仕返しのため──。自分の行動に、目的や理念などを添えて理論武装する人ほど、長期的な結末はよくないものです。

理由は一つ。好きだからやっている。これでいいのです。

(「ココロの盲点」)

 

意味や正解を求めすぎかもしれません。

それは、「理論武装」でしかない。

 

  • なんとなく、心が向いたから
  • なんとなく、気になったから

 

それが、好奇心です。

 

テーマよりも、過剰な思い入れ

生き生きさせるのは何かっていったら、あとは過剰な思い入れだけです。たとえば恋愛映画なんてもう無数に作られているわけだけど、そこにすばらしい女優がいたり、本当にドキドキできる監督がいたら、新しい映画ができるんです。でも、そういう要素がなくて文体を思い出しながら映画を作るようになったら、もうおしまいですよ。

(中略)

もし、自分の作る映画についてテーマはこうですってとうとうとしゃべるやつがいたら、そんな映画は大した映画じゃないと思います。

(ジブリの教科書12)

 

私たちの日常も、そうかもしれません。

理由を考えるのは大事なのですが。

 

それでも。

「自分でも、どうしてこういう行動をとるのか、わからない」

 

わからないけれども、行動してみる。形にしてみる。

「過剰な思い入れ」だけで動く。

なんだか、よくわからないけれど「心が向かう先」。

 

そんな人生を歩んでみるのも、いいかもしれません。

「成功法則」や「ビジョン」は、やはり後づけの理論ですね。

まとめ

映画「ボヘミアン・ラプソディ」から学んだこと。

あくまでも主観的な解釈です。

  1. 積極的にヒットをねらう姿勢
    • 自分にこだわりつつも、自分にこだわらない
  2. 究極のショーマンという意識
    • どんな自分であろうと、人を楽しませる
  3. 意味や目的よりも、心が向くほうへ真剣になる
    • ふらふらと適当、どっちでもいい
    • でも、根底は変わらない
    • 想像力を発揮する

 

人の心を打つというのは、簡単なことじゃない。

自分の魂を解放するほどの、ひたむきさが大事なのだと感じました。

 

特に、自分にこだわりつつも、積極的にヒットをねらったというところに、プロの姿勢を感じます。

 

「自分のやりたいこと」をやる、とはいえ。

どこに、こだわるのか。

誰に喜んでもらいたいのか。

 

迷ったときには、クイーンの「究極のショーマン」という意識が参考になるのではないでしょうか。

 

フレディの生き方は、行きあたりばったりのようにも見えますが。

それくらい、心が向いたほうに、全速力で走っていたからですね。

 

それは、幼い頃からの孤独感を解放するためでもありました。

 

「孤独で寂しい」「トラウマが消えない」というのなら。

全力で当たってみる。

どこまで徹底的にやっているか? ということを、クイーンの曲を聴くと思い出させてもらえます。

 

だから、フレディの歌声が、頭から離れないのかもしれません。

 

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