- 私が、あんなことを言ってしまったから……
- 私が、あんな行動をしていなければ……
- うちの親が、こうだから……
過去を思い出してはクヨクヨしてしまう。
だから。
「物語ではない」と考えたほうが、ラクかもしれない。
いまこの瞬間をダンスするように生きる
人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。
(中略)
ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとは誰も思わないでしょう。無論、踊った結果としてどこかに到達することはあります。踊っているのですから、その場にとどまることはありません。しかし、目的地は存在しないのです。
(嫌われる勇気)
過去も今も、独立した点でしかない
フロイト的な原因論に立っていると、人生を因果律に基づく大きな物語としてとらえてしまいます。いつどこで生まれて、どんな幼少時代を過ごし、どんな学校を出て、どんな会社に入ったか。だからいまのわたしがいて、これからのわたしがいるのだと。
たしかに、人生を物語に見立てることはおもしろい作業でしょう。ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。しかも、その物語に沿った生を送ろうとするのです。わたしの人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘に他なりません。
しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。
(嫌われる勇気)
過去にどんなことがあっても、今とは関係ない
過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
(中略)
過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。
(嫌われる勇気)
「線ではない」とは、なんの関係もないということ。
「自分がこうだから、こうなんだ」ということでもなければ。
「あの過去のせいで、今がこうだ」ということでもない。
因果関係なんて、何もない。
今だけを考えて、今を踊ればいい。
それが、刹那的。
トラウマも、他人からの理解も、どうでもいいこと。
人生を因果関係にひもづけるのは、やめてみよう。
今この瞬間にしか、ダンスは踊れない。
参考図書
コメントを残す