ふと、行き先を変更したくなった
「今日、私が行くべき場所は会社ではない」
朝、会社へ向かう足取りが、なぜか重くなって。
くるっと方向転換し、その足で、父のいる病院へと向かった。
父は、見舞客がくると、無理して起き上がり、苦しくても頑張って、笑っていたけれど。
その日、私と2人っきりの朝、「会社はいいのか?」と、ちょっとだけ笑みを見せ、ずっと横になっていた。
それが、なぜか嬉しかった。
最後の病室で、親子の絆を取り戻せた気がした。
思い出話に花を咲かせながら、「お前がいると、しゃべり続けてしまうよ」と。
息が苦しくなっていたので、無理して話してはいけなかったのだ。
父が最期に残した言葉は、「俺は、人の気持ちのわからない人間だった」というものだった。
父の容態が急変したのは、その日の夕方だった。
あの朝、予定通りに会社に行っていたら、直観に従っていなかったら、心はバラバラのまま別れていただろう。
直観は、あれこれ考えるスキを与えない。
理由がわからないまま、体がもう動いている。
逆に、直観か? 熟考か? と迷うなら、熟考する時期なのだ。
人は、せっぱつまると力を発揮する。
今、振り返ってみても、あの朝、なぜ病院へ向かったのか、わからない。
ためらうなら、ムダな考えで浪費するなら、余裕があって幸せなのだ。
「直観に従う」とは、命がけの行為。
いちばんの後悔は、何度も「病室に泊まろう」と思ったのに、「迷惑かな」とか、「仕事もあるし」とか、言い訳をして泊まらなかったこと。
母や兄に対する見栄、世間体を考えてしまったこと。
「父のそばにいたい」という自分の本音を、言い訳と世間体でかき消してしまった。
私の父に対する想いは、子どもの頃からずっと、母と兄に対する、遠慮と見栄だった。
言い訳と世間体は、自分嫌いを助長させる。
勇気を出して捨ててしまわないと、「それでも自分が好き」と言えるまでに、長い時間を要してしまう。
やはり。
何となくこうかな? と思うことは、何となく正しい。
一度も病室に泊まらなかった後悔が、何かで迷うときにいつも思い出される。
余裕を捨てたほうがスッキリと判断できる。
即断即決というけれど、情熱に突き動かされるのであって、頑張って選択することではない。
迷ったときは、きちんと自分の本音と向き合おう。
そして、問いかけてみてほしい。
「世間ばかりを気にして、そんなに自分を嫌いになりたいの?」と。
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