哲学|一神教と多神教にみる【自分は何者か】環境に生かされる私たち

一神教

日本には、八百万(やおよろず)の神がいることを誇りに思う風潮もあるけれど。

なぜ、八百万の神が生まれたのか、知っているだろうか?

しかも、八百万の神は、世界の標準であることを知っているだろうか。

 

 

多神教は、森の宗教。

豊かな自然の中で、「森の神」や「山の神」を敬い、共生する心をつちかってきたのだ。

 

そして古代世界では、多神教がメジャーであった。

日本だけが特別なのではない。

 

 

一方で。

一神教は、砂漠で生まれた新しい宗教。

過酷な環境を生きる人々にとっては、「唯一絶対の神」という心の支えと戒律が必要だった。

 

 

生まれた環境が、考え方に大きな影響を与える。

そのことを理解すると、周囲の人々との接し方にも生かされる。

 

 

宗教の是非を問うものではなく。

あくまでも、哲学としての宗教を考えてみたい。

「世界はどうしてできたのか?」

「人間はどこからきて、どこへ行くのか?」

この問いに対して答えてきたのが、宗教であり、哲学である。

一神教と多神教の違いは何か

一神教と多神教の違いを、ひとことで言うと……

「生まれた環境の違い」である

目の前の環境を、どう解釈するかで人生が決まる

自然環境は、人間の生活だけではなく、考え方や思想までをも左右する。

目の前にある環境を、自分のなかでどう解釈するかで自分の生き方が決まるのだ。

 

環境に生かされる私たち

自分は何者なのかと考える際には、自分が生まれ育ってきた環境に思いをはせてみるといい。

また、他者を見るときも、この人の背景には何があるのかを想像してみれば、腹が立つことも減るのではないか。

 

POINT

私たちは、自然環境によって生かされているのであって。

自分自身で決定していることなんて、何一つないのかもしれない。

 

そんなことを一神教と多神教の生まれた背景から、考えてみたい

世界は、多神教がメジャー

豊かな自然のもと、神々が誕生する

八百万の神は、日本だけの特権ではない。

ギリシア神話にもローマ神話にも、たくさんの神々が登場する。

ヒンズー教も、多神教。

キリスト教が伝統のように思われているドイツやフランスでさえも、土着の「ケルト信仰」があった。

ケルト神話には、300人以上の神々が記録されているという。

古代世界のヨーロッパは、深い森に覆われた後進地域だったのだ。

 

伝統とは、あるようでないもの

一神教は、当時の世界では新興宗教のようなもの。

そう考えると、「伝統」とは何なのかと疑問に思う。

何億光年という宇宙の歴史から見れば、数百年でさえ、ほんの一瞬。

そのなかでの人間の伝統なんて、本当に大したことないのではないか?

 

POINT

「伝統を重んじる」ことが立派に思われているけれども、実は、どうでもいいものに執着しているとも言えないだろうか。

 

それはさておき……

一神教であるユダヤ教は、砂漠で生まれた、新興宗教だった。

人の考え方とは、環境によるところが大きいのである。

ユダヤ教は、砂漠で生まれた新しい宗教

過酷な砂漠の暮らしで、「唯一の神」が心の支えになった

古代のユダヤ人が暮らしていた地域は、シリア、パレスチナ。

そこは、豊かなエジプトと、豊かなメソポタミアの間にある、とても貧しい砂漠地帯だった。

隣のメソポタミアに強制連行され、建設作業に動員されたりもした。

生きるだけでも苦しいうえに、異民族に支配され続けるという苦渋の境遇。

ユダヤ人は、「飢え」「乾き」「異民族からの支配」という災難続きの生活をしていた

 

なぜ、ひどい目にあわなければならないのか?

その疑問に答えたのが、ユダヤ教だった。

今の状況を受け入れるべき理由と、神との契約を忠実に守りさえすれば、ユダヤ人は必ず救われるのだと説かれた。

いわゆる「選民思想」である。

 

ユダヤ人は、選ばれし民

神は、困難を耐え忍べば必ず救いにくると、ユダヤ人と契約をかわしたという。

「旧聖書」とは、神との契約が書かれた、いわば「契書」。

あくまでも、「ユダヤ人を救う宗教」がユダヤ教であり、生まれた背景からして排他的な性質をもっている。

 

背景は違えど、仏教にも似たような思想がある

「一番不幸に泣いた人が、一番幸福になる」というもの。

不幸な境遇にある人が、それでも希望をもって生きていくには、「救われる日がくる」と思わなければ耐えられないだろう。

小さなことで言えば、私たちが日常、「こんなに苦しい思いをするのには、何か意味があるはず」と考えるのも同じ心情だ。

人は、苦しみの渦中にあるときは、何かしらの意味を求め、必ず報われるときがくると信じたい。

 

POINT
苦しい状況で「選民思想」が生まれるのは、ある意味、必然かもしれない。

私たちも心の底では、「私は選ばれし人間なんだ」と思っていないだろうか。

それをハッキリと言語化したのが、ユダヤ教なのだ。

 

耐え難い暮らしでは、厳格な神と、厳格な戒律が必要だった

ちょっと行動を誤っただけでも、命取りになる砂漠での暮らし。

異民族に連れ去られるという苦しみと悲しみ。

「絶対にこうだ」と言えるものがなければ、命を守れないし、心も保てない。

「一つだけ」に頼る心情というのが、湧き上がるのではないか。

 

禁断の果実を食べて楽園を追放されたのは、ユダヤ人だった

有名な「アダムとイブ」の話。

実は、ユダヤ人の話だったのだ。

今、ひどい目にあっているのは、自分たちの祖先が神に背いたために、悲惨な地上に追放されてきたからだと説明している。

これが、「アダムとイブの原罪」。

ユダヤ人にとっての地球は、「追放の地」であるからこそ、悲惨なのは当たり前なのだと納得した。

 

神への服従を誓えば、肥沃な土地を授けてくれる

ユダヤ人の祖である「アブラハム」が、神と契約をしたという。

神への絶対的な服従を誓えば、肥沃な土地(現在のパレスチナ地方)を授けてくれる、と。

ユダヤ教の神様「ヤハウェ」は、絶対に約束を果たしてくれる。

それこそ、「万能の神」「絶対神」でなければならない理由だ。

 

神との約束を破れば、厳罰が下される

神様は絶対的であり、厳しい。

絶対に約束を守ってくれるからこそ、約束を破ったときも、絶対に罰が下される。

契約だから、絶対に守らなければならない。

必然的に、「神との約束 = 戒律」を守るという、厳しい「戒律主義」になる。

 

他の宗教を認めないという排他的な性格は、そのような背景によるもの。

 

私たちでいえば、親の教えから抜け出すのが難しいのと同じ

旧習深い地域では、「村の掟」があったり。

親戚などの「しがらみ」を無視できなかったり。

厳しい家庭に育った人が、完璧主義になったり。

 

教えに背くと、「親不孝者扱い」されたり、「非国民扱い」されたり、「村八分」にされたりする。

生まれ育った教えを破ることは、もっとも苦しい行為であり、罪悪感をも生み出すもの。

 

「宗教をもった人は……」と偏見を抱きがちだけれども、やっていることは、本質的には同じだよ。

 

POINT

思想や考え方は、生まれ育った環境に左右されることを知っておくと、人間の心理を理解しやすくなる。

キリスト教とイスラム教は、ユダヤ教から派生した

派生という表現が合っているかはわからないけれど。

キリスト教とイスラム教の根源は、砂漠で生まれたユダヤ教だった。

イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒だった

イエスは、戒律主義のユダヤ教を偽善だと批判した。

神様が、そんなに厳しいはずがない。

もっと、愛の精神で、さまよっている人間を救ってくださるのだ、と。

だから、「迷える小羊」や「放蕩息子」という表現をしている。

 

ユダヤ教を批判した罪で、イエスは死刑にされた

なぜイエスが殺されたのか、理解できない人も多いと思うけれど。

実は、当時のユダヤ教にとっては、異端児でしかなかったのだ。

イエスを信じて従った人も、全体の人口からいえば、ごくわずかだった。

 

しかし、厳しい生活に苦しんでいた人々にとっては、イエスが心の救いになったのは事実だった。

 

処刑後に、神様としてあがめられるようになった

イエスの処刑後、「イエスは人間ではなく、救世主(=キリスト)だったのでは?」と言われるようになっていった。

そうして、「新約聖書」が書かれ、ユダヤ教から分離してできたのが、キリスト教。

ただし、人間だったイエスを神様にしてしまったところが、理論上の矛盾点。

それゆえに、数々の宗教会議で議論されることとなる。

 

イエスを神として認めなかったのが、イスラム教

イスラム教では、アッラーを絶対神とする。

「イエス」はあくまで人間であり、預言者という位置づけ。

ユダヤ教での預言者アダムノアアブラハムモーゼの4人に加え、イエスと、イスラム教の開祖ムハンマドさえも、人間だとしている。

 

POINT
経緯はともかく、砂漠の苦しい環境が、一神教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教を生み出した。

生活環境と思想とは、密接に結びついているのだ。

 

砂漠で生まれた宗教は、「恨み」が根底にある

一神教の民が根底に抱く「恨み」とは……

なぜ、日々の生活はこんなにも過酷なのか?

なぜ、こんなにも苦しまなければならないのか?

なぜ、異民族に征服されなければならないのか?

 

しかし、「信じる者は救われる」のだ

いつか必ず、幸せになれる日がくる。

苦しんでいる我らこそ、神に選ばれた民族なのだ。

だからこそ、戒律を守って耐え忍ぼう。

それが、一神教の信仰心。

 

敬虔な信仰心は、「恨み」に支えられたもの

恨みの心を、キルケゴールは「ルサンチマン」と名付けた。

ニーチェはルサンチマンを再定義し、キリスト教を批判した。

弱者の逆恨み、復讐心でしかない、と。

 

強者を批判する「弱者の復讐心」が宗教の根本?

愛の精神ではなく、復讐心でしかない。

それが、「ルサンチマン」。

 

キリスト教批判はともかくとして……

「ルサンチマン」という発想は、私たちにも当てはまるのではないだろうか。

 

「バカにされて悔しいから頑張る」っていうのは、よくあるな。

 

悔しさをバネにするのはいいけれど、ルサンチマンを超越すべきである(超人思想)

「悔しさをバネに頑張る」と考えれば、一神教の考え方にも共感できる。

ただ、ニーチェの主張は、「ルサンチマン」だけで生きていくのは情けなさすぎるということ。

自分を「超越」すべきである、と。

それが、「超人思想」と呼ばれるニーチェの思想。

 

POINT
悔しさ、恨みだけで頑張るのではない。

そこを超越し、自らの意志で生きていきたい。

ニーチェの思想は、当時はもちろん批判されていたが、現代になって再認識されるようになった。

多神教は、森の宗教である

森が、寛容と感謝の心を育ててくれた

多神教は、砂漠ではなく、森で生まれた。

恵まれた自然環境。豊かな森。

そんな環境では当然のこと、大地や、雨や、木々に、畏敬と感謝の念を抱く。

自然との共存共栄が求められる。

共存しないと生きていけないからこそ、排他性ではなく、寛容性が重視される。

 

共存しようという思想は、森があってこそである

日本を含む、多神教の文化が優れているわけではなく。

あくまでも環境によるものと言えるのではないか。

過酷な砂漠で暮らす人々の気持ちは、想像しても想像しきれない。

恨みを抱くか・感謝を抱くかは、環境によるのだと理解しよう

苦しい状況にある人は、恨みを抱きやすい。

感謝の心で育つ人も、環境に恵まれただけである。

 

決して、個人の能力や心の技量だけの問題ではないんだ。

 

誰かと会話をするとき、相手の生まれた背景や歴史を想像してみるだけでも、気持ちが変わるのではないだろうか。

 

結局のところ。

環境に大きく左右されるのが、人間。

 

だからこそ、今あるものに感謝をする。

恨みの心は、超越していく。

そんなことを心がけていきたい。

私たちは、何を信頼しているだろうか

一神教も、多神教も、環境が生み出したもの。

そして人は、何かをじてりたい生き物なのだ。

「信仰心」とは、「信頼心」だと思うと、わかりやすい。

 

「自分」という存在は、環境によって大きく左右されるもの。

さて、私たちは、何を信頼しているだろうか。

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