「千と千尋の神隠し」はカオナシの物語【宮崎監督も予想外】脇役がいきなり主役級へ

不思議な存在、カオナシ。

なぜ、こんなにも気になるのでしょう。

それは、宮崎駿監督もご自身で語っています。

 

何の予定もなくてただ立たせていただけなんです。橋の上に立っているヤツは一人くらいいらだろうって。でも、映像になって見たら妙に気になるヤツだったんですよね。そうなるとこっちも『アイツはなんであそこに立っているんだろう』って考え始めるんですよね。『アイツ、油屋に入ればいいのにね』とか『友達が来るのを待っているのかな』とかね。

(ジブリの教科書12)

 

そうして、ただの脇役だったカオナシが、監督も気になりだして、いきなり主役級の役割を与えることになったそうです。

 

妙に気になってしまうカオナシ。

なぜ、気になるのでしょうか。

「カオナシは誰の心にもいる」(宮崎駿)

自分が何者なのか、サッパリわからない

カオナシは、文字どおり、顔がない。

つまり、没個性。

 

何がやりたいのか、わからない。

それだけじゃない。

今この瞬間さえも、何をやっているのか、わからない。

なぜここにいるのかも、わからない。

 

だから千尋に、「どこから来たの?」と聞かれたときに、苦しそうな顔をします。

 

いつの間にか、自分が何者かさえ、わからなくなってしまった。

 

自分がない。

自分のキャラがない。

自分の個性がない。

 

自分の言葉を発することもできず、他人をのみこみ、他人の声を借りてでしか会話ができない。

 

こんなにも「個人ブランディング」が叫ばれているなか、本当はただの「カオナシ」なのではないか。

そんな心の奥の不安を、見せられているようです。

 

「そこ、濡れませんか?」と声をかけられて、初めて自分の存在感を知る

雨の中、立っているカオナシ。

油屋の中にいる千尋に顔をじっと見られ、たずねられます。

 

「そこ、濡れませんか?」

 

そして、「ここ、開けておきますね」と、自分のために窓を開けておいてくれる。

 

たったこれだけの接触でしたが。

個性のないカオナシにとっては、千尋が女神様のような存在になりました。

 

暗い夜。冷たい雨。

濡れていることに気づいてくれる人なんて、誰もいない。

まして自分でさえも、なぜ自分が濡れているのか、わからない。

 

そんなときに、話しかけてくれた人がいた。

 

仕事に疲れた男性が、キャバ嬢にお金をつぎこむ。

寂しい女性が、やさしくしてくれた男性に貢ぐ。

そんな姿とも、重なります。

実際にカオナシは、千尋に気に入ってほしくて、「金」をじゃんじゃん出し続けます。

 

誰もが、暗い夜・冷たい雨に濡れ、誰にも気づいてもらえない寂しさのなかで生きているのでしょうか。

 

だから、こんなにも気になる。

 

カオナシの寂しさは癒やされない

宮崎駿監督が作詞された、カオナシの歌というものがあります。

タイトルは、「さみしい さみしい」。

 

「さみしい さみしい」

さみしい さみしい 僕ひとりぼっち

ねェ 振り向いて こっち向いて

たべたい たべたい 君 たべちゃいたいの

君、かわいいね

きっと寂しくなんかならないんだね

 

カオナシの寂しさが、癒やされることはありませんでした。

 

自分がもってきた「薬湯の札」のおかげで、千尋は、最大のピンチを乗り越えることができた。

千尋は、信頼を得ることができ、働きやすい環境になっていった。

 

もしかしたら、カオナシは、そこまでを想定していたのかもしれません。

千尋が、みんなから嫌われているのを感じとって。

 

それなのに。

千尋は喜んでくれなかった。

むしろ、「自分の家に戻りなさい」と言われてしまう。

だとしたら、スネてしまうのも、わかります。

 

親子関係の寂しさにも似ている

親は子どもに、幸せになってほしくて必死に与えます。

そのおかげで、子どもは、窮地を乗り越え、助かったことも多いはず。

だけど感謝もされずに、「もう親の助けはいらない」と言われてしまうのです。

そんなときの寂しさにも、似ているかもしれません。

 

最後まで、癒やされることはなかった

千尋にくっついて、一緒に電車に乗ることしか、できなかったのです。

 

ラストは、銭婆に、「お前はここに残りなさい」と言われる。

「新しい道を見つけた」というポジティブな解釈もできますが。

結局のところ、大好きな千尋についていくことはできないのです。

「残りなさい」と言われたカオナシは、やはり寂しさがただよっていたように感じました。

 

親子でいえば、親離れの寂しさでしょうか。

 

最後の最後まで、うまらない寂しさ。

愛してほしい人には、つきはなされる運命を受け入れるしかない。

 

宮崎監督は、「カオナシは、誰の心にもいる」と語っています。

誰もが、心の奥底に、寂しさを抱えて生きている。

 

自分のカオを取り戻す必要がある

どこかで自分のカオを取り戻さないと、最後まで言われるがままの人生になってしまいます。

「承認欲求」のとりこになってしまうと、ずっとカオナシのまま、好きな人にもついていけずに取り残されることになってしまうのでしょう。

 

考えてみると、ちょっと怖い。

それでも、こんなにも共感を誘うのは、そんな生き方から抜け出せないというのが、現実なのかもしれません。

千尋は、カオナシに救ってもらいつつも最後は捨てる

カオナシというのは、人間の心の底にある闇、心理学でいうところの“無意識”を象徴している。そいつがあらゆる欲望を飲み込みながら暴走する。千尋はそれを鎮め、海の上を走る列車に乗って銭婆に会いに行く。そして、戦うことなく名前を取り戻します。不思議なお話ですよね。物語の類型からはかけ離れています。でも、僕はこれこそが現代の映画だと思った。

(鈴木敏夫「ジブリの教科書12」より)

 

窮地におちいったときは、救ってもらう

千尋は、クサレ神を救いました。

突き刺さっていたトゲを抜いてあげたことで、クサレ神は浄化されたのです。

そして、「よきかな」との言葉をもらう。

 

湯婆婆からも、「よくやった」と褒められ、抱きつかれます。

自分の窮地のみならず、油屋ぜんぶを救った。

 

でも、そのキッカケとなったのは、カオナシがくれた「薬湯の札」だったのです。

カオナシに救ってもらったといっても過言ではないでしょう。

 

没個性でありつつも、必要な存在。

いざというとき、大切なものを、差し出してくれる。

どうすればいいかを教えてくれる。

 

だから、追い払うのではなく、上手に付き合っていくことが幸せになる秘訣なのでしょう。

 

ただ、もう少し、「あなたのおかげ」と言ってあげてもよかったのではないか?

 

誰もが、誰かのために必死に生きていて。

誰もが、誰かのおかげで生かされている。

 

相手の手柄を知りつつも、素直に感謝を伝えられていない。

感謝されないほうは、どんどん心を病んでしまう。

 

そんな、せつない現代のコミュニケーションが、よく描かれていると思いました。

 

暴走を止める

暴走するカオナシを、止めた千尋。

それは、自身の中の欲望と折り合いをつけた、ということかもしれません。

自分の中のカオナシを、愛し、受け止め、救った話でもあります。

 

最後は、執着を断ち切る

それでも千尋は、なんの愛着も執着もなく、カオナシを銭婆のもとへ置き去りにします。

カオナシにしてみれば、寂しい話ですが。

千尋からしたら、過去に振り回されることなく、スパッと断ち切る。

さわやかな決断ともいえます。

 

自分の中の「暴走する心」は、受け止め、愛し、一緒に歩みつつも、最後は断ち切るもの。

 

最後に千尋は、過去を断ち切ったのでしょう。

 

その証拠に、ハクに「振り向いてはいけないよ」と言われ、本当に振り向くことなく前へ進み、元の世界に戻っていきました。

 

さわやかといえばさわやかだし、寂しいといえば寂しい。

それでも私たちは、過去を断ち切り、前を見ることでしか、生きていけないのです。

千と千尋の神隠しは、千尋とカオナシの物語

心のトゲと暴走を、どう手なづけて生きるのか

心に刺さるトゲを抜き、暴走する欲望を手なづけながら、「無気力な千尋」は「生きる気力」を取り戻していきました。

 

ファンタジーの世界でありつつも、現実味を帯びて、私たちの胸にせまってくる。

こうやって生きていかねばならないんだなと感じさせてくれる、千尋とカオナシの話です。

 

ただし、宮崎監督は、最後まで「千尋とハクの話だと思ってた」そうです。

 

なんと。

完成した映画を観たあとに、こう言ったそうです。

「分かったよ。これはたしかに千尋とカオナシの話だ」と。

 

自分でもわからないものが、どんどん出てくる

描いている本人も気づいていなかった。

まさに無意識の象徴・カオナシのなせるワザですね。

 

そして、こうも語っています。

 

自分でもわからない、脳みその奥の方のふたを開けて、なぜこれが出てきたかわからないっていうようなものを出す作業なんです。だから十歳の子供のために映画を作ろうとすると、自分の十歳も出てくるんですよ。思い出すんじゃなくて、いつしか出てくるんですよね。自分が予想もしてなかったものが自分の中に出てきて、それが自分の存在そのものとどこかで深く結びついてて、それが実は、思い出したくないから自分でしまっていたブラックボックスだったりするとか……。そういう部分がないと映画なんてつまらないです。

 

「こうだ」というものがハッキリしていて描くのではない。

描いているうちに、どんどん自分でもわからないものが出てくる。

 

鈴木敏夫プロデューサーも、「作っている当人も気づかない。それが作品というモノだと思いました」と言っています。

 

人生そのものが、そういうものなのかもしれません。

やっているうちに、なぜだかわからないけれど、こういう仕上がりになってしまった、と。

テーマは必要ないのかもしれません。

 

海外ではコメディにとらえられる

海外プロモート担当の武田美樹子さんの話です。

いろんな国で試写をしていると、「この国ではこういう反応をするんだ」と発見することがたくさんありました。とくに驚いたのが、カオナシを笑い飛ばす観客が多かったことです。これはアジアでも欧米でも共通で、どうもコミカルに見えたらしいです。カオナシが登場するシーンで泣いている人が多かった日本とは対照的でした。

 

不思議ですね。

カオナシを、自分と照らし合わせて見てしまうのは、日本人特有の心なのでしょうか。

あるいは、日本人の寂しさが、世界の中でも突出しているのでしょうか。

 

とにかく。

よくわからないけれども、妙にカオナシが気になってしまう。

なぜなのか説明できないけれど、妙に気になるものがある。

それが無意識の世界。

 

宮崎駿も無意識に時代の深層を感じとっているところがあります。だから、カオナシのような心の暗闇を象徴するキャラクターが出てきたんでしょう。人々は「わけが分からない」と思いながらも、意識の底でカオナシとのつながりを感じるから、夢中になって見てしまう。

(鈴木敏夫「ジブリの教科書」)

 

 

参考図書

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