思考は、悲しみに翼を与え、悲しみを飛翔させる。
そして、楽しみを創り出す。
悲しみが消え去り、楽しみが残ること。
これこそ思考の本領発揮である。
アランは言う。
「思考は翼を与えるもの」であり、「感情は翼に反発をするもの」だと。
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私たちは、自分の思考によって苦しむわけではない。
事実を認めたくないという、思考に対する反発心、感情によって苦しむのだ。
本当はこうじゃない
こんなはずはない
そう思うから苦しい。
「思考が悲しみに翼を与え、悲しみが飛翔する」
考えに考えた末に、悲しみが飛び去っていく。
思考とは本来、自由になるためのもの。
逆に、「反省」は不要だとアランは言う。
「翼がへし折られて、悲しみは地上をはいまわることしかできなくなる」
反省は、翼を与えるどころか、どんどん自分を飛べなくさせる。
そう言えばタモリさんも、「反省はしない」というので有名。
反省しても、ネガティブになるだけで何もいいことはない。
「しあわせになる秘訣の一つは、自分の気分に無関心になるということだ」
「自己を責めるいっさいのみじめな反省からほんとうの自分を切り離すことである」
要するに、責められる自分、みじめな自分というのは、本当の自分ではないということだ
むしろ、本当の自分は、楽しんでいる自分。
私たちは、苦労はなるべく避けたいと思ってしまう。
しかし、登山やスポーツを考えてみればわかるように、本当は、苦しんでこそ楽しい。
感情で判断すると矛盾する。
その矛盾を、思考の力で乗り越えるのだ。
「精神は思惟(しい=思考)によってこの労苦を楽しみとしなければならない」
気の持ちようではない。
自分の思考で、自分の錯覚を破ること。
「混合物のなかで、ぼくは、砂金採集家のように、砂利や砂を棄てて、どんなに小さくとも砂金を見分けねばならない。探すのがぼくの仕事だ」
みじめな反省は、砂利や砂。
翼を与える思考が、砂金。
私たちは、自分の中から、砂金を見つけださねばならない。
アリストテレスはあの驚くべきことばを吐いている。
真の音楽家とは音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである、と。
『楽しみは能力のしるしである』と彼はいうのだ
間違った感情は、楽しみを飛翔させて悲しみを残す。
重く重く考えて動けなくなるようなら、それは思考ではない。
思考の力を使って悲しみを飛翔させ、楽しみを残そう。
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