「あなたの意見は?」と聞かれて、結局は「特にありません」と答えてしまった。
他人の意見に納得はできないけれど、「まあいいか」と受け入れてしまった。
ちょっと引っかかるけれど、「そういわれれば、そうかなあ」と、思ってしまった。
さて、この状態は、「考える力」があると言えるでしょうか?
自分なりのとらえ直しをしないまま、「ほかの人と同じ」発想を続けていると、自分にとって本当は何が重要なことなのかが見えなくなる。
「知的複眼思考法」by 苅谷剛彦(東京大学教授)
自分にとって何が重要かがわからないのに、「自分らしく生きる」「夢を叶える」といっても「絵に描いた餅」となりそうです。
だからこそ、自分の意見をしっかりと持っていきたい。
とはいえ、どうすれば自分の意見が持てるのか、サッパリわからない。
そこでオススメなのが、「知的複眼思考法」です。
物事を「いろんな側面」から見たうえで、自分なりにとらえ直すこと。
「いろんな側面」から見るからこそ、「複眼」思考となる。
そのうえで。
「自分なりに」とらえ直すからこそ、「知的」複眼思考となる。
私たちは普段、どれだけ、「知的に」「複眼で」物事を見ているでしょう?
そして、どうしたら「知的に」「複眼で」物事を見ることができるようになるのでしょう?
その具体的なトレーニング方法が、この本には書いてあります。
では、がんばって「私なりに」、できるだけ簡単に、知的複眼思考法をとらえ直してみたいと思います。
Contents
「考える」とは、いったい何なのか?
単眼思考と、知的複眼思考
物事を判断する方法を、大きく、AとBの2つに分類して、比較します。
A:単眼思考
「世間が言ってること」という、ひとつの側面だけを見て判断する。
それを、「単眼思考」と呼ぶ。
※単眼思考とは呼ぶけれど、厳密に言えば、思考はしていない。
- ありきたりの常識
- こういうときは○○すべき
- ステレオタイプ
- やっぱり女は○○だ
B:知的複眼思考
対してBは、違う側面からも見てみたうえで、自分でとらえ直す。
自分の頭で、言い換える。
それが、「知的複眼思考」。
- 自分なりのとらえ直し
- 自分なりの判断
AからBへ変換するプロセスが、「考える」作業である
A(常識)から、B(自分の意見)へ変換するプロセス
そのプロセスこそが、「考える」と呼べるもの。
「B(自分の意見)へ変換できないこと」が、悩みのタネ
読書猿さんも、「独学大全」のなかでこう述べています。
困りごとや悩みを抱えていても、それを知りたいという気持ちに変換できる者は多くない。
(独学大全)
つまり、AはAのまま。
変換ができない。
「AだからAなんだ!」という状態。
- 「これが常識なんだ!」
- 「みんなが、こう言ってる」
- 「普通に考えて、こう」
- 「困ってるから、困ってるんだ」
これでは、悩みは解決しそうにありませんね。
「B(自分の意見)へ変換できないこと」
まさにそれ自体が、悩みの正体とも言えるのでしょう。
つまり。
私たちは、目の前の出来事に悩んでいるのではない。
B(自分の意見)に変換できないからこそ、目の前のことが悩みになる。
逆にいえば。
「自分の意見に変換できる」=「悩み解決」
なぜなら。
よくわからない、「とらえどころのないもの」が、「悩み」だからです。
変換できれば、悩みは解決する。
A(常識)と、B(自分の意見)との違いは?
- ひとつの側面だけを見る
- 単眼思考(単一の目)
- 具体的なセリフ
- 普通は〇〇だよね
- 〇〇すべきだよね
- こういうときはこういうもんでしょ?
- それ、やばいと思う
- いろいろ見たうえで、自分の立ち位置を決める
- 知的複眼思考
- 具体的なセリフ
- 〇〇という理由から、私は△△だと思います
要するに。
「自分で考えているか?」とは。
「自分なりにとらえ直しているか?」と言い換えられる。
さて。
とらえ直せているでしょうか?
自分の目で。しかも複数の目で。
「BもどきのA」も、たくさんある
考えることは、想像以上に難しい。
なぜならば。
「これが複眼思考だ」と言った時点で、単眼思考になってしまうから。
「Bもどき」にハマってしまいます。
何を言っても、ループにはまる感覚がある。
それくらい私たちは、「自分の考え」というものが、なさすぎるのです。
それは、「親の考え」「世間の考え」にどっぷりと浸かって生きてきたことが大きな要因だといえるでしょう。
また、学校教育の影響も、非常に大きいと思います。
そこから抜け出すには、それなりの覚悟とトレーニングが必要です。
「BもどきのA」とは、どんなもの?
「いかにもBっぽく見せておいて、実はA」。
「Bが大事だぜ」とかっこよく言っておきながら、実はAしかできてない、という実態。
では、BもどきのAには、どんなものがあるでしょう?
- 当たり前を疑え
- 自分の頭で考えよう
- 考える力が大事だ
「当たり前を疑う」ことも、多数の人が、簡単に言うようになったので、もはやステレオタイプ的になってきています。
言うだけ言って、その意味を理解できていない。
「本当に、当たり前を疑えているだろうか?」「そもそも、当たり前って何だろうか?」を、疑ってみるといいと思います。
まったくもって「疑えてない」ことに気づくはず。
決して、多数意見が悪いということではなく。
「多くの人が言っているから」と、考えなしに取り入れ、実は言葉の意味を理解していないことを、知るべきなのです。
それこそ、「流される」状態であり、「自分の意見ではない」と断言してもいいもの。
「考えるプロセス」とは、何か?
論理を追い、論理で組み立てる
- 情報を読み取る
- 話の流れ(論理)を追う
- 証拠はあるか?
- 感情論になってないか?
- 決めつけではないか?
- 自分なりにとらえ直す
- 得た情報・知識を使って、自分の考えを論理で組み立てる
ひとことで言うと。
インプットした情報の「論理」を追い、新たな意見を「論理」で組み立てること
「論理」とは、何か?
話の流れがスムーズかどうか
- A=B
- B=C
- よってA=Cが成り立つ
この話の流れ(道筋)が、違和感なく受け入れられること。
論理的な話は、展開がスムーズ
簡単にいうと、「スムーズかどうか」。
これがすべてだと思います。
論理が成り立っていれば、スムーズに聞こえる。
もしも、モヤモヤするものを感じたり、心に何かが引っかかったりしたら、「論理に飛躍がある」と考えていいでしょう。
「しっくり」くれば、「論理的」
論理が何かを知るよりも、これが大事。
- 話の流れがスムーズ
- スッキリと、「しっくり」くる
- 説得力がある
あまり難しく考えると、わからなくなるので。
「しっくり」くる感覚がもてれば、「論理的」です。
「なんか違う気がする」と感じる場合は、「論理がない」
なんとなく違和感を抱くなら、次のようなことが原因でしょう。
- 証拠が不十分
- 「とにかく、こうなの!」
- 感情論・自分語りが大きい
- 「だって、私はこうだから!」
- 決めつけが激しい
- 「Aと言ったら、Aなんだ!」
いわゆる、「支離滅裂」という状態。
「誰もわかってくれない」「誰も評価してくれない」と思うとき。
支離滅裂な話し方になっていないか、チェックしてみましょう。
「きちんと自己主張しよう」といっても、論理がなければ、押しつけのようになってしまう。
それでは、「意見」とは言いがたいです。
そのように自身を反省し、論理を組み立て、自分の主張をスムーズに展開することを試みたほうがいいですね。
理由・冷静さ・ソフトな態度
「支離滅裂」の逆を考えれば、論理がどういうことかが、見えてきます。
証拠や理由があり、冷静で、柔軟な姿勢で話せていること。
大人が、子供に、「なぜ、これをしちゃいけないのか」を、愛をもって言い聞かせるようなイメージでしょうか。
感情を押し殺すことではない
私たちが、「論理的」という言葉を毛嫌いする理由。
その第一の理由は、こう感じているからではないでしょうか。
- 感情的になってはいけない
- だから、感情を抑えなければいけない
- 論理的とは、冷徹ということだ
その結果、「もっと自分の感情を大事にしたい」と思うようになり、論理をあきらめてしまうことがあります。
「論理的って、つまらない」と。
しかし。
「感情を押し殺すべき」は、単眼思考といえます。
「論理=感情がない」も、単眼思考といえます。
そうではなく、「知的に」「複眼で」見る。
すると、「感情を織り込みつつも」「スムーズに話す」という可能性も見えてきそうです。
そんな話し方を、「自分なりに」考える。
「人間はロボットじゃない」という意味でも、「 “自分なりに考える” 知的複眼思考」は、とても優れた手法だと思います。
自分なりの論理を組み立てるには?
まずは、「問いを立てる」こと。
「問い」は、どこから生まれてくるか?
「問い」とは、「疑問」から生まれるのだといいます。
実は、「疑問」と「問い」とは、似てるようで全然違う。
それは「卵」と「ヒナ」の関係に似ています。
「疑問」は卵
たとえば、失敗したり、恥をかいたりしたとき。
「なぜ私は、いつもこうなのか」という疑問(卵)が出てくる。
卵が出たら、すぐさま、大切に温めねばなりません。
それが、「問いを立てる」こと。
「問い」はヒナ
「問いを立てる」とは?
具体的には、”「要素」に分解する” 作業を指します。
たとえば、「なぜ私は、いつもこうなのか」を分解してみると。
- なぜ私は
- 私だけだろうか?
- 他の人はどうなのだろう?
- → 比較が必要
- いつも
- いつもって、365日?
- 1か月では何日になるか?
- 1日では何回になるか?
- → データ化が必要
- こうなのか
- 「こう」とはどういう状態か?
- 体・感情は、どう変化するのか?
- 他人への接し方はどうなるのか?
- → 具体化が必要
通常は、疑問(卵)を放置してしまう
卵は、そのままにしておくと割れてしまいます。
それが「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という状態。
つまり。
「失敗から学べない」「自分の意見が持てない」のは、疑問を放置していたことが原因なのです。
卵は、放置せずに「〇〇化」
細分化、具体化、抽象化、一般化、データ化
「疑問」を「問い」にするためには、「要素を分解」し、「〇〇化」という作業が必要になります。
「〇〇化」とは、「〇〇に変わる・変える」こと。
- 小さいものに変える
- 具体例に変える
- 抽象性に変える
- データに変える
要するに、自らの頭や、手を動かして、変換していくことです。
自分の意見が、自然と育ってくれるわけではありません。
- 疑問(卵)
- 生まれたての不思議
- 自己嫌悪や他責
- 社会への疑問など
- 問い(ヒナ)
- 疑問の中身を要素分解する
- 卵の「〇〇化」
- 答え(鳥)
- 自分の意見
「自分の頭で考える」とは、何か?
力をつけよう
ここまでの話を整理すると、「自分の頭で考える」とは、次のようになります。
- 「情報」を読み取る力
- 「論理の筋道」を追う力
- 「自分の論理」を組み立てる力
読み取る→論理を追う→論理を組み立てる、という順。
ここで重要なことは、「力」という点です。
「AとBと、どちらが正解か?」と、正解を競うわけでは、ない。
「読み取る力」「追う力」「組み立てる力」、すべては「力」なのです。
総称して「考える力」。
結果は度外視でいい
「思考」は、ひとまずは、結果は度外視。
間違っていようが、つたなかろうが、自分でしっかりと組み立てた意見であれば、立派な「自分の思考」です。
あとは、「不正解」を恐れず、自信をもって発する勇気だけ、あればいいんです。
「読む・書く・話す」も、やみくもにしない
- 本を読めば、頭がよくなる
- 書けば、論理的な力がつく
- 人と話すと、アイデアがわく
よく言われることですが。
「そのとおりにやってみたけれど、何も変わらなかった」という経験も多いと思います。
やはり、やみくもにしていても、ダメだということです。
そんなときこそ、「知的複眼思考」の出番。
次の2点を意識してみましょう。
- 相手の話の、論理を追う
- 自分なりの論理を、組み立て直す
具体的には。
本を読むときも、人の話を聞くときも、
- この人は、どのような理由から、こう言ってるのだろう
- もっと別の見方はできないのか
- ほかのケースもあるのではないか
- ちょっとデータが不十分なのではないか
- 自分なりにとらえ直すと、どうなるだろう
こんなことを意識しながら、読んだり話したりしてみると、「自分で考える力」がついていくのだと思います。
「考える力」をつけるためには、本を読むときも、人と話すときも、書くときも、次のことを意識する。
- 相手(著者・話者)の論理を追い、自分なりの論理を組み立て直す。
さて、ここで、改めて考えてみたいこと。
「本当に、”自分なりの意見”を、持ちたいと思っているのかどうか?」
果たして、自分なりの意見を持ちたいのか?
- 本当に、常識にとらわれたくないのか?
- 本当に、自分なりの意見を持ちたいのか?
前述したように、「自分で考える」とは、想像以上に難しい作業です。
「これ以上、考えたくない」という状態になった経験は、誰もがあると思います。
「考える」とは、面倒な作業だから。
「考えたくはないけれど、自分らしく生きたい」という気持ちがあるのならば、悩みの原因は、そこにあるのかもしれません。
「自分なり」とは、どういうこと?
「自分なり」とは
- 自分自身との関わりの中で、
- 複数の視点を持って、
- 考える力を働かせていくこと
何が難しいかといえば、「自分との関わり」という点。
たいていの場合、「自分とは関係ない」と思ってしまうから。
だから「上の空」になる。
卵(疑問)が、ヒナ(問い)にかえりません。
「自分ごと」に置き換えられるかどうか
どんな学びも、「自分」に置き換えてみなくては、身につかないのです。
学んだことを、今の自分の悩み・今の自分の問題に置き換えて、「自分ならどうか」を考えること。
要するに。
「学校教育は役立たない」と言う人は、「自分ごと」に置き換えられなかった人。
「読書は役立たない」と言う人は、「自分ごと」に置き換えられなかった人。
「人と会っても役立たない」と言う人は、「自分ごと」に置き換えられなかった人。
「自分ごと」に置き換える人は、学校教育からも、読書からも、他人からも、どんどん吸収して役立てていくものなのでしょう。
「自分の意見は持ちたくない」のかもしれない
ステレオタイプの単眼思考は、心地よいものです。なぜなら、「常識」的なものの見方は、私たちに「ほかの人と同じだ」という安心感を与えてくれるからです。そのおかげで、「ああそうだね」と調子を合わせれば、会話もスムーズに流れて行く。自分の頭で考えないことで、世間の流れにのっていくこともできるのです。
(知的複眼思考法)
なぜ、「自分の意見」を持てないのか?
実は……。
「自分の意見なんて、持ちたくない」と思っているから、かもしれません。
多数意見に合わせているほうが、ラクだからです。
「皆と同じ」は安心できる。
なので、最終的な問いは、こうなります。
「本当に自分なりに考えたいか?」
まとめ
「自分なりに」「複数の視点から」「論理を組み立てて」考える。
それが、知的複眼思考法。
それはまさに、「自分らしく」「知的に」生きる方法でもあります。
- 卵:疑問
- 瞬間的に生まれる、ふとした疑問
- ヒナ:問い
- 疑問を、要素分解してみる
- 鳥:自分なりの意見
- 「しっくり」くるまで、論理を組み立てる
壊れやすい卵が、立派な鳥になっていく。
そのプロセスが「考える」作業。
常に、「自分ごと」に置き換えるのがポイントですね。
要素分解の方法としては、以下にザックリと抜き書きしておきます。
気になったら、ぜひ本で学んでみてください。
最後に。
どうすれば、「いろんな側面から」物事を見れるようになるのか?
そう悩む人は、「自分で考えたい人」だと思います。
たとえ大変であっても、常識にとらわれず、自分なりの意見を持つことを望んでいる。
そうであるならば。
さっそく今日から、心で生まれる疑問を要素分解し、自分の意見に変換する道へと、踏み出してみませんか。
「考える力」に必要なものは、「ほんのちょっとの勇気」だけ。
正解主義におちいらず、プロセスを大事にしていきたいですね。
疑問の要素分解の方法
- 「主語」をとらえ直す
- 「概念」をとらえ直す
- 具体:ストーリーが必要
- 抽象:データが必要
- 新しい概念を発見
- 他のケースを見る
- 2つ以上を比較し、共通概念をつかむ
- 疑似相関を見破る
- 関係論で見る
- 逆説の発見
- 自己成就予告
- メタを問う
- なぜそれが問題なのか?
- 誰が得をするのか、損をするのか?
- その問題が解決したらどうなるのか?
- 「○○化」に置きかえる
- 例:やる気がない→無気力化
- なぜこの問題が生じたのか?
- なぜ、そうなったのか?
- プロセスを見る


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