誰にも理解されない独学者へ。
学ぶことは、つまるところ自分を変えることだ。昨日知らなかったことを一つ知れば、また新しいスキルを身に付ければ、わずかであれ人が変わる。
「独学大全」by 読書猿
「この本の」というよりも、「読書猿さんの」すごいところと言うべきかもしれません。
何に一番感銘を受けたかというと、何よりもまず、「我々はなぜ学ぶのか?」という、「永遠のモヤモヤ」とも呼びたい根本命題に、明快かつ軽快に答えてくれてるところ。
明確であり、読書猿さんの本音でもあり、しかもそのとおりに実践中の言葉でもあるため、返す言葉もなく、ガツンと胸をつかまれた感覚。
学校教師に質問をしたときの、なんだか生ぬるっこい、よけいに心がヌメヌメとしてくるような、お行儀のいい教科書的な回答とは違う。
なぜガツンと胸をつかまれたかといえば。
- 個人の感情のみの主張ではない
- 「私はこう思う!」的ではない
- かといって教科書的でもない
- 「世の中、かくあるべし!」的ではない
- 論破されてる感じでもない
- 「あなたは、間違っている!」的ではない
感情でもなく、教科書でもなく、論破でもない。
事実と根拠を元にした、読書猿さん独自の信念と理論を表明していて、かつ、お仕着せがない。
しかも、本当にすべてが独学だという事実が、さらなる衝撃を与えてくれます。
(誰かに教わったわけではない、本当の意味での独自の学び)
ちょっと持ち上げすぎのような感もしなくもないですが、「読後感スッキリ」という初めての感覚があったことは間違いありません。
それはまるで、風邪を引いて何日もお風呂に入れないまま寝込んだあとの、なんだか自分の体が気持ち悪くてたまらないときの、やっと味わえたお風呂のよう。
久々に包まれるポカポカ&スッキリ感に、「あぁ~、生き返った」としみじみと味わったときのような。
スッキリした読後感とは、まさにそんなお風呂上がりの感覚。
「学ぶって、そういう意味だったのか」と、頭がクリアに澄み渡った気分を(一時的ではあれ)味わうことができます。
もちろん、お風呂上がりのスッキリ感が一瞬で消えるように、この本を読んだからといって、スッキリした感覚がずっと続くわけではありません。
忙しい日常のなかで「何のため」はすぐ忘れてしまう。
そのたびに、まさにお風呂に毎日入るような気持ちで、毎日毎日、思い出していくことが必要なのではないかと感じます。
お風呂に入ることは、「大事なこと」というよりも、「生きるうえで必須」「人に会うためのマナー」として欠かせないように。
学びの目的を思い出すことも、もはや「大事なこと」ではない。
「生きるうえで必須」「人としてのマナー」くらいに思ったほうがいいのではないか。
そんな気さえしてくる、そんな本。
そしてもうひとつ、「我々はなぜ考えることができないのか?」という疑問について、これまでに思いもよらなかった事実を知りました。
それを知ったことによって、自分に対しても、周囲の人に対しても、見方が変わってくる。(少なくとも、違った観点を与えてくれるのは事実)
イライラすることがあっても、イライラの意味が変わってしまうのです。
そんなわけで、この本を読んで得られたこと
- 学ぶ意味と目的が明確になった
- 学ぶモチベーションが一気に上がった
- 周囲の人の言動が少し理解できた
- イライラの意味が変わった
- 読後感スッキリ
Contents
我々はなぜ学ぶのか?
学ぶことで人は変われる
学ぶことで人は変わる。変わるためにこそ人は学ぶ
現在、「学び」というと、「収入アップ」至上主義とでも呼びたくなるような、学びの意義を軽視するような向きもあります。
「稼ぎにつながらないなら意味がない」と豪語する人も多い。
- 学びの成果とは?
- 劇的な収入アップ
- 海外での自由な生活
- スマホ一つで好きを仕事に
いっけん、素敵な言葉に聞こえるけれど。
逆の意味で、画一的になっている様相を示しています。
「自由・楽々・ハッピーライフ」を手に入れるための方法は、「早い・簡単・誰でもできる」。
だから、皆でこれを学びましょう、と。
そんな現実に違和感を抱きつつも、「これは変だ」とハッキリ言えない自分にコンプレックスを感じてしまうことさえあります。
「趣味あるいは習慣とでも呼ぶべき、純粋なる知的欲求で学んでいる人はどうしたらいい?」
心で思いつつも、言えないまま消えていくモヤモヤ。
そのモヤモヤに指針を与えてくれたのが、まさに読書猿さんでした。
学ぶことは必然である
読書猿さんの素性はわかりませんが、どうやら会社員のよう。
学びは、完全に独学で、しかも「収入アップ」等のキャッチーなことは言いません。
たとえば、次のようなことを言っています。
学ぶことはヒトにとって必然だ。
生まれ持った認知能力だけでは、ヒトは今のような巨大で複雑な社会を、それを支える知を維持できない。
我々は、直感と感情が優先する脳を持っていながら、生得的な認知機能だけでは適応しがたい世界に、言い換えれば理性と知識なしには社会と文明を維持できない世界に生きている。
知ることのすべてが、我々の思考と行動を変えている。
知識は何かを変える力がある。
「まさに……」と、声にならない感動がこみ上げてくる。
ふつふつと、「学びの意欲」がわきあがってきました。
我々はなぜモチベーションを保てないのか?
逆風は、常に周囲から吹く
何かを学ぼうと決意したとき。
何か新しいことにチャレンジしようとしたとき。
決まって、次のようなセリフを言われませんか?
しかも、いつも身近な人から。
「お前には無理だ」
「そんなことをして、何になる」
「それよりも、こっちをやったほうがいい」
私たちは、いちど自信がついたからといって、ずっと自信満々な状態が続くわけではありません。
ある日突然、ガクンと自信を喪失したり。
一気にモチベーションが下がってしまったり。
上がったり下がったりを繰り返すもの。
脳は、車と同じで。
エンジンとともにブレーキをかける機能が、必ずついているから。
「ずっと走り続ける」のは無理だと思っておいたほうが、いい。
むしろ必要だから止まることも、多々あります。
とはいっても。
無駄に(必要もないのに)エネルギーを消耗してしまうのは、できれば避けたいものです。
その代表例が、逆風。
「逆風」とは、前から&外部から、吹いてくるもの。
すなわち、自分の心のエネルギーを無駄に消耗させる「風」とは、常に、「自分の前から」&「自分の外部から」吹いてくるというのです。
それこそが、他人からの・特に身近な人からの反対意見。
信念が弱いと、その風にすぐに吹き飛ばされてしまう。
だから、風は外から吹いてくるけれど、その風に吹き飛ばされるのは内部からの揺らぎ。
気をつけねばなりません。
なぜ、逆風は周囲から吹くのか?
では、なぜ、周囲の人は、私たちの行動に反対してくるのでしょう?
読書猿さんの説明は、わかりやすいです。
学ぶことに苦手意識を持ち続け、イソップ童話の『あのブドウは酸っぱい』というキツネのように学ぶことや知識の価値を否定し、最後には人の勉強まで邪魔するようになる。
学ぶ動機付けを持てなかった者は『勉強・学問なんて役に立たない』と吐き捨てるだけで済まさず、僻み根性を拗らせて、幸運にも動機付けを持てた〈めぐまれた連中〉に嫌がらせまでするようになる。
「勉強なんて、役に立たない」
「勉強よりも大切なことがあるだろ」
「学んでばかりいないで、もっと実践しろ」
もちろん、「ごもっともだ」と言えなくはない部分も、あるにはあるのですが。
その真意は、たいていの場合は違うところにあります。
特に、「勉強なんて役に立たない」は共感しやすいけれど、「遊びなんて役に立たない」には心が揺れにくいところが、人間心理を物語っているかのようです。
酸っぱいブドウ理論
「勉強なんて役に立たない」と同類の意見には、ほかにも次のようなものがあります。
- 美人は性格が悪い
- エリートは心が冷たい
- 金持ちほど不幸だ
これらの共通点は、誰もが認めたくない・向き合いたくない真実ですが、やはりこれしかないでしょう。
「ひがみの心」
それこそ、「酸っぱいブドウ理論」です。
メンタリストDaigoさんも言ってました。
「美人は性格が悪い」とか「美人は3日で飽きる」という定説はなぜ広まったか?
それは、モテない男性が、「フラれたのは自分のせいではない」と負け惜しみを言うせいだ、と。
実際は、容姿にコンプレックスを持ってる人のほうが、性格に問題を抱えやすいようです。
もちろん、いざフラれる立場になったら、「私の魅力がわからないなんて、見る目がないな」という言葉で自分を慰めないとやってられない、となるのは自分自身も同じこと。
なので、どうしようもなく生まれてしまう自己正当化だとは思いますが。
とにかく、「そんなことをやって何になるんだ」といった種類の批判意見を聞いたら、酸っぱいブドウ理論だと思っておいたほうがいいでしょう。
周囲の人の本音は、「自分より頭がよくなってほしくない」「自分だけ取り残されたくない」「寂しい」というもの。
どれだけ自信満々に、堂々と語っていたとしても、です。
「同調圧力」ともいうし、「出る杭は打たれる」「足の引っ張り合い」という現象も、結局はすべてが「ひがみ」でしかないはずです。
そのような逆風に、吹き飛ばされないことが大事ですね。
ただし、逆に、学ばない人を批判するようになってしまうことにも注意が必要。
学びは、他人と喧嘩するためのものではない
マウンテングにマウンティングで返したくなるのが人の常というもので。
「嫉妬」に対して、「見下し」で応戦しないことも、心の鍛錬です。
これに対して、そうした連中を見下したい〈意識の高い連中〉は、自分が学ぶ動機付けを持った人間だと思いたい一心で、あれこれの勉強本を買い漁る
学びとは、他人と喧嘩するためのものではない。
学んだ結果、人を見下してしまうなら、それこそ学びの意味がなくなってしまいます。
ここは肝に銘じなければならないと、つくづく感じました。
我々はなぜ考える力がないのか?
個人的に、一番の衝撃を受けた部分がここです。
困りごとや悩みを抱えていても、それを知りたいという気持ちに変換できる者は多くない。
そこに知りたいことや知るべき何かが埋まっているとは思ってもみない。
私自身も、「考える力がない」ことが悩みではあるのですが。
そう悩みつつ、他人に対しても、どうしても思ってしまうのです。
「え? それ以上考えないの?」と。
自分のことを棚に上げていることは承知なのですが、なぜかイライラが止まらなくなる。
そんな気持ちに、どう折り合いをつけたらいいかと悩んできたわけですが。
「知りたいという気持ちに変換できない」
この一節を読んだときには、驚きというのか、感動というのか、「そういうことだったのか……」と、何とも言えない気持ちになりました。
今までは当然のごとく、「わからない」→「知りたい」になるものだと思っていたからです。
「知りたいけれど怠けてしまう」ことは、もちろん無数にある。
だから、「わかりません」は、ただの丸投げ。怠けでしかない。
そう思っていたので、他人に対しても、自分に対しても、「なんて怠け者なんだろう」と感じていたのですが。
怠けていたわけではなく、「知りたい」という気持ちに変換できなかったのです。
通常は、変換できない人の方が多い。
「あったらいいな」とは、思ってない
考えてみれば、たしかにそうです。
世の中のヒット商品は、「あれば便利」「でも、まったく思いつかなかった」というものばかり。
便利な商品が出た時には、「なぜ今まで思いつかなかったのだろう」と、不思議になるくらいです。
要するに、「不便だ」→「もっと便利にしたい」という変換は起きないわけです。
それほど私たちは、「不便だな」と感じつつも、それを当然のごとく受け入れてしまっているわけです。
「受け入れ」といえば聞こえはいいですが、「あきらめ」「思考停止」という状態なのでしょう。
通常は、変換できない人の方が多い。
読書猿さんの別の著作「問題解決大全」には、次のようにあります。
最初から「私が直面する問題に役に立つものは存在しない」と決めてかかって、探すこと自体をしない。
(問題解決大全)
つまり。
便利アイテムを思いつけない理由は、自分の決めつけ。
「不便だけれど、便利になんてなるわけがない」
「きっと不便だと思う自分が間違ってるんだ」
そんなふうに、無意識に判断してしまっているようです。
愚痴だけで、行動しない心理
「愚痴だけ言って何もしない」というのが、まさに、「『知りたい』に変換できない」状態だと思われます。
不便だからこそクレームは言いたい。
けれども解決策はないものだと、あきらめている。
すると余計に愚痴が止まらなくなる。この世はなんて理不尽なんだ、と。
逆に考えれば。
不便や不満を感じたときこそが、チャンスのときだといえます。
「だからこそ便利にする方法を知りたい」「なんとか工夫したい」という気持ちに変換できさえすれば。
読書猿さんの、また別の著作「アイデア大全」には、こうありました。
「そうじゃないだろ!」という体験や感情のリストは、自分が本当は何をつくりたいのかを教える手がかりとなるはずだ。
(アイデア大全)
イライラの種を書き出すことは、健康や幸福感を改善するだけでなく、アダムスによれば、創造力や発明心の優秀な着火剤を蓄積することにもなるという。
(アイデア大全)
※アダムス:「創造的思考の技術」という本の著者(米国)
イライラは、優秀な着火剤。
そう思えば、仕事や家庭生活の中で、イライラのタネが出てきたら、むしろ喜んでしまったほうがよさそうです。
自分の感情とは、自分のものでありつつも、一体いつどこで、どんなものが出てくるか、まったく想像がつきません。
だからこそ私たちは、自分の感情に恐れおののいてしまいます。
感情のコントロールを必死でやろうとします。
しかし、それよりも。
創造性が発揮できるときだと思えば、「待ちに待ってました」という気持ちになれるかもしれません。
歴史的な偉人も発明家も、「できない」「わからない」ことに、イライラし続けた人たちだからです。
とはいえ。
そんなに簡単なことではないのも事実。
なぜなら前述のとおり、「どうせ解決策なんて見つからない」と、強く深く思ってしまっているからです。
世の発明は、そうした不満に応じて登場したものが少なくないが、数多ある不満の中で着手できたものはごく一部しかない。
(アイデア大全)
せっかく出てきたイライラなら、ぜひとも有効利用したい。
そのように待ち構えていると、怒りやイライラ、不満を感じる意義が、ガラッと変わってきます。
また、同僚や友人に感じるイライラも、たしなめることができそうです。
相手は怠けているわけではなく、「知りたいに変換できていないだけ」だから。
そしてそれは、自分も同じことだから。
- 「わからない」ストレスを、
- 「知りたい」に変換する
- 「不便だ」と思うイライラを、
- 「便利にしたい」に変換する
「学び」への扉は、イライラしている人に開かれる。
まとめ
この本を読んで変わったこと
- 学ぶ目的が明確になった
- 生き抜く知恵をつけるため
- 自分が楽しいと思うことをするため
- 逆風に吹き飛ばされない自分になるため
- 学ぶモチベーションが一気に上がった
- 「やらなきゃ損」という気持ち
- 周囲の人の言動が少し理解できた
- わからないことがあっても、「知りたい」気持ちに変換できない
- イライラとの付き合い方が変わった
- 抑えるものではなく、むしろ歓迎すべきもの
- 便利なものを生み出すきっかけにするもの
たんなる学習法の話かと思っていましたが、今後の進み方を大きく変えてくれた本になりました。
おかげで、なかなか着手できてなかったプログラミングと語学の勉強を、今やろうと決めました。
続けるための計画の立て方もバッチリ書いてあったので、まずはそのとおりに進めてみたいと思います。
モチベーションと意欲が高まり、計画の立て方と始め方までわかる「独学大全」。
いま、何かを学びたいと思っている人には、ぜひ一読をお勧めします。
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