思考は、私たちを、不安と後悔から脱出させてくれる。
しかも、私たちが唯一、自分自身で所有しているもの。
- なんとなく不安
- 漠然とした思いがある
- 考えても堂々めぐりになる
- パニックになりやすい
- 話が支離滅裂になる
- 何をやってもうまくいかない
- 後悔だらけ
私は旅に出て、思考の実験をして、ある境地に達した。それで不安と後悔から一生、脱却できた。
(デカルト)
デカルトは、「近代哲学の祖」と呼ばれる人であり、天才的な数学者でもあります。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉が有名すぎて、「何やら難解な哲学を説く人」というイメージしかないと思いますが。
実は、まったく逆。
「論理的な考え」というものが、明快になります。
きちんと「思考の道筋」をたどれば、不安と後悔からは脱却できる。
スッキリと問題を解決することができる。
そんな方法を、説いている人でした。
「論理的」とは、ザックリ言えば、「理性の力」を使いましょうということ。
- 感情を落ち着かせる
- 問題を、一つ一つ列挙する
- 整理する
- 順番に解決する
「感情」という動物的な部分を、「人間らしい理性の力」を使って、自分をコントロールし、悩みを解決していく。
デカルト思考とは、とても実践的なものだったのです。
Contents
デカルト思考とは、思考の交通整理のようなもの
論理とは、順序を守って理由をつけること
「論理的」というと難しく聞こえますが。
わかりやすくいえば、「考える道」。
「考える道」を失うと、「いっぱいいっぱい」になる
辞書的な意味を調べると。
- 論理とは
- 議論の筋道のこと
- 筋道とは
- 理由や順序のこと
つまり。
「順序を守って」「理由をつけて」考える・話す
それぞ論理。
「頭がいっぱいいっぱい」とは、「順序がグチャグチャ」「理由がない」状態ともいえます。
順序を考えよう
たとえば、外出するときの順序とは。
- 外出用の服に着替え、
- 靴を履き、
- ドアを開け、
- 外へ踏み出す
こんなふうに、出発までには順序があるわけです。
「守るべき順序」ではありません。
「必然的に」そういう順序になるものです。
順序が乱れると、「交通渋滞」を引き起こす
「交通渋滞」とは、次のような状態
- 混乱
- パニック
- いっぱいいっぱい
- 堂々めぐり
- 支離滅裂
- なんとなく不安
- 漠然とした思い
- 何をやってもうまくいかない
- 後悔だらけ
たとえて言えば。
靴も履いてないのにドアを開けようとしたり、ドアを開けてないのに外へ出ようとしたり。
順序を間違えてパニック・堂々めぐりで、時が過ぎると後悔ばかり。
よくよく考えるとバカげている。
私たちは、しばしば、そんな状態に陥ってしまいます。
その、「グチャグチャになった思考」を交通整理してくれるのが、「論理の力」。
「考えすぎ」は、「何も考えてない」
「いっぱいいっぱい」になるのは、仕方ないんですよね。
私たちには、動物的な本能(原初の脳)も、消えずに残っているから。
ときに、本能のほうが強烈に作用してしまう。
要するに。
「考えすぎ」と思うときほど、何も考えてないのです。
衝動的になって、順序を間違えているだけ。
パニックになってるとき、「考えすぎないほうがいいよ」というアドバイスをよく聞きますが。
正確にいえば、「ちょっと休んで落ち着こうよ」という意味ですね。
落ち着かないと、理性が出てこないからです。
「人間らしく」とは、「理性」を働かせること
感情に振り回されるのは、いわば動物的。
「考える力」を使わないのは、宝の持ち腐れ。
せっかく人間に生まれたんだから、「人間的な理性の力」を鍛えていきましょうよ、というのがデカルトの教えです。
思考は、目に見えないから難しい
なぜ「いっぱいいっぱい」になってしまうかといえば、「思考」というものが目に見えないからです。
「靴を履かないのに、外に出ようとする」は、目に見えてオカシイことだと、わかるけれど。
「理由も述べてないのに、わかってもらおうとする」が、なぜオカシイのか、理解するまでには時間がかかります。
目に見えない思考を、目に見える「論理の筋道」に変える。
見えないものを交通整理するのだから、困難です。
「道」さえあれば、安心できる
悩んでいるときは、「あっちかな? こっちかな?」と、まさに道をうろうろしている感覚。
「あーでもない、こーでもない」とは、「靴を履くべきか、ドアを開けるべきか」というようなもので。
そもそもが、ズレているのです。
山で迷ったとき、舗装道路を見つけて安心できたときのように。
考えるときも、話すときも、「話の筋道」を意識するだけでスッキリし、解決が速くなります。
論理とは、「考えること」や「話すこと」の道。
道のない道に、自分で「道を作っていく力」が必要。
デカルトの方法序説
論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、(中略)次の四つの規則で十分だと信じた。
(「方法序説」by デカルト)
- 明証性
- 証拠を明らかにし、速断と偏見を取り除く
- 「なぜなら」の構築
- 分析
- 問題を、要素に分けて考える
- 小さく分割
- 総合
- 単純なものから徐々に登っていく
- 選択肢を少なく
- 枚挙
- 列挙し、見落としがないか確認する
- 分析と総合の、繰り返し
難しければ、「なぜなら」の一つ覚え
「なぜなら」をサンドイッチするだけで、ずいぶんスッキリと、そして伝わりやすくなります。
- 私は、こう思う
- 「なぜなら」○○だから
- よって私は、こう思う
一番難しいのは、「なぜなら」を考えること
理由や証拠を挙げるとは、いざとなると、けっこうツラいです。
たとえば。
「なぜ、働いているのですか?」という質問に答えようとすると、とても頭が疲れますよね。
↓これは感情論
- 「だって生活できないし」
- 「そんなこと聞かないでほしい」
- 「働かなきゃいけないに決まってるでしょ!」
こういう回答をする場合は、考えていません。
つまり。
「なぜなら」を考えることこそが、考えること
自分の行動に理由が言えることなんて、「ほぼゼロに近い」と言っても過言ではありませんね。
普段どれだけ考えていないか、という自分の実態がわかります。
ということは、議論や話し合いがうまくいかない原因は、何も考えずに、感情論に走ってしまうことが大きそうです。
交通渋滞を起こし、感情論で突っ走ろうとする頭を、理性的に・論理的に、導いてあげねばなりません。
「なぜなら」を導くために、「大・多」を「小・少」にする
デカルトの「方法序説」の4つの規則のうち、ひとつは「なぜなら」を考えること。
残り3つは、「なぜなら」を導き出すための準備段階です。
- 明証性:「なぜなら」を考える
- 分析・総合・枚挙:「なぜなら」を導く準備
準備には、「大きい&多いを避ける」と覚えておきましょう。
大きくて、多いものを、私たちは考えることができないからです。
「大きい」「多い」は無理
「大きい」だけで、怖く感じます。
だから、小さく小さく分割する。
そして、選択肢が「多い」と、混乱します。
だから、「まずは単純なものから」とすることで、選択肢を少なくする。
- 分析:要素分解
- 大きいものを小さくしてから考える
- 総合:階段状に登る
- 選択肢を少なくしてから考える
- ひとつ登ったら次の段へ
- 枚挙:繰り返し
- すべて網羅しているかをチェック
これで、「なぜなら」の理由を導き出していく。
これがデカルト「方法序説」の、4つの規則です。
「なぜなら」を考えるときは、「大」「多」を避けよう。
デカルトの「3つの格率」
「格率」とは、行動するときの規則のこと。
- 中庸:両極端を避ける
- 決めたら、やり抜く
- 世界の秩序よりも、自分の欲望を変える
不確実なときは、両極端を避ける
どれがもっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然(がいぜん)性の高い意見に従うべき
(方法序説)
「蓋然(がいぜん)」とは、「ある程度、確実なこと」という意味。
「わからないけれど、たぶん、こっちだろうな」と思えるほうを選ぶのです。
その際、両極端は避ける。
「賛成だ!」「反対だ!」ではなく、どちらの可能性も踏まえておいたほうが、あとで修正しやすいからだそうです。
- 主張をするときは、証拠・理由が必要。
- 証拠・理由がないときは、両極端は避けるべし。
決めたら、やり抜く
自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと
(方法序説)
「行動においては果断であれ」とは、驚きです。
しかも「どんなに疑わしい意見でも」です。
なぜなら。
デカルトの思考は、基本的に、
- 「本当にそう言えるのか?」と疑うことを前提とする
- 意見には、理由や証拠をきちんと示す
- わからないときは、両極端を避ける
これだと、「何ごとも慎重に、しっかり調べてから」というイメージがしますが。
それでも、「一度決めたら、疑わしくても迷わず貫く」果断さがある。
整理すると、こうなるのかもしれません。
- 他人の意見には、慎重に、疑ってかかる
- 自分の行動は、すみやかに
- 決めたら、迷わない
自分自身を振り返ると、普段はほぼ、この逆をやってしまっています。
だから、何もかもがうまくいかなかったんだなと、反省ばかりです。
- 他人の意見には、すぐさま噛み付く
- 自分が行動するときは、「まだ情報が足りない」と言う
- 極端な意見を言う
- 決めたあとも迷ってる
努力の方向が、まったく逆でした。
まさに、デカルト思考は、「道」だと感じます。
世界の秩序を変えようとしない
運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること(中略)
われわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけること
(方法序説)
- 運命に勝つより、
- 自分に打ち克つ
- 世界の秩序を変えるより、
- 自分の欲望を変える
- 努力すべきは、
- 自分の思想のあり方のみ
意見が分かれたり、相手の意見に賛同できなかったりしたとき。
ついつい、「あの人の考えを正すべきだ」「この会社のやり方が悪い」と、相手を非難し、相手を変えようとしてしまう。
「自分の欲望を変える」べし
「自分を変える」ではなく、「自分の欲望を変える」と言っているところが、的確すぎますね。
つまり、「相手を思い通りに変えたい」という「自分の欲望」を変えなければならない。
ただ、デカルト自身も「努める」と言っているのが励みになります。
なかなか、「できるようになった」とは言えないので、せめて「努めなきゃ」と思い出していきたいものだなと、思います。
「我思う、ゆえに我あり」
自分を外から眺める
有名な、「我思う、ゆえに我あり」とは。
すべての存在を、「これは本当か?」と、疑いに疑いぬいた結果……。
「自分の存在だけは疑えなかった」という結論の言葉です。
「自分の人生、いろいろあるけれど」、または「何もないけれど」、自分が存在していることだけは確か。
その自分の存在には、確信をもとうじゃないか、と。
弱い存在であっても、思考し続けることでその人の価値や尊厳が生まれる。
(「仕事に使えるデカルト思考」by 齋藤孝)
「自分には何もない」と思うときほど、考えるべき
「自分には何もない」ように思えるとき。
「何もない」とは、「外に」何もない、という意味だと思います。
地位も、肩書も。
名誉も、成功体験も。
お金も、人気も。
何もない。
自分って何なんだろう、と。
むなしくなるときがある。
でも、本当に何もないか? といえば、「考えている自分」は、あるわけです。
逆に言うと。
「外」に何もない自分が、「内での思考」を放棄したら、本当に何もないことになってしまう。
であるならば。
「人間らしい理性の力」を使って、「ちゃんと考えていきましょうよ」「それが人間として生まれた醍醐味でしょう?」というのが、デカルト思考なのです。
まとめ
デカルトが数学者であることに、納得しました。
私は数学には弱いですが、プログラミングは少し勉強しているので、なんとなく用語がわかります。
「ことばを集めて配列する」とか。
「要素に分けて、分析する」とか。
「何度も繰り返して、間違いがないか検証する」とか。
論理的とは、そもそもが数学なんですね。
問題解決とは、「論理」なんだということも、デカルト思考を学んでみて、初めて腑に落ちてきました。
これまでは、何かで悩んだとき、心理学の話を聞こうとは思っても、論理の話を聞こうとは思ったことがなかったので、新しい発見です。
特に、女性にありがちだと思いますが、「感情的になるだけで支離滅裂」という状態では、何も解決しないんだということが、よくわかってきます。
たとえば会社で。
上司にわかってもらえないときは、たいてい自分の話に、論理的な理由がないときです。
相手の意見に、感情的にかみついてしまったり。
たんなる立場争いになってしまったり。
わたしは、学校で行われている討論というやり方で、それまで知らなかった真理を何か一つでも発見したというようなことも、見たことがない。というのは、だれもが相手を打ち負かそうと懸命になっている間は、双方の論拠を考量するよりも、真実らしさを強調することに努力しているからである。
(方法序説)
自分の要望(クレーム)を言うとき。
言う側は、「私の気持ちをわかってほしい」という思いで言うけれども。
言われたほうは、「俺の意見が否定された」と思ってしまいがちですよね。
お互いが、「自分の」気持ちをわからせることに必死になってしまう。
どうしても、自分の感情を守ることを優先するし。
自分より良い意見を言った人に対する、嫉妬心も出るし。
「理由」を検証する余裕を失ってしまう。
だから解決しないわけです。
「コミュニケーションが大事だ!」と号令をかけつつも。
うまくいかないのは、感情論に終始してしまうからというのが大きいのだと思いました。
コミュニケーションの成立のためには論理が必要。
そして、理由・証拠がないときは両極端を避ける、ということが、自分自身の反省点からも、納得です。
力不足を実感し、力を鍛えたいなと思えた、デカルト思考でした。
- 感情と理性の使い分けができる
- 悩みの解決法が身につく
- 人を説得しつつ、自分を保てるようになる
- 不安と後悔から脱出できる

参考図書
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