私たちは、快楽を求めすぎ。
特に、他人の楽しそうな姿を見ると、「自分なんて」と思いがち。
だけど。
本当の幸せは、そんなところにはない。
ここでは特に、「大地とのふれあい」を考えてみます。
本当の歓喜は、大地との接触にある
(退屈に堪えられない人は)花瓶にいけられた切り花のように、一歩一歩、しぼんでいくところの人物にほかならない。
(ラッセルの幸福論)
- 退屈に堪えられない人は、花瓶にいけられた花
- すぐ、しぼむ
- 本当の歓喜を味わう人は、大地に咲く花
- 永遠に、大地から吸収する
花瓶にいけられた花で一生を終わる人とは、たとえば、お酒・バクチ・異性で興奮を得ようとする人。
そのような娯楽の特徴は、「大地と接してないこと」です。
この場合の「大地」とは、実際の大地のこと。
大地との接触こそが、原始的で、単純で、もっとも大きい歓喜だといいます。
私たちの生命は、大地の一部にすぎない
2歳の男の子は、濡れた大地に歓喜する
2歳の男の子の、こんなエピソードがありました。
とてもわかりやすく、かつ、とても詩的な表現なので、ちょっと長めに引用します。
季節は冬であった。万物はじっとりと濡(ぬ)れ、泥にまみれていた。成人の眼には、そこには喜びを与えるものは何一つとしてなかった。だが、それにもかかわらず、この男の子のうちには、不思議なエクスタシイが湧き上がってきた。彼は濡れた大地にひざまずいた。その顔を草の中に持って行った。そして片言の歓喜の叫びを発したのである。彼がそのとき経験しつつあったところの歓喜は原始的で、単純でかつ大きなものであった。こうした生理的要求が満足せしめられるときにはまことに深いものがある。だからこそ、これに飢え乾いているものはほとんど完全に正気とは思えないくらいなのだ。私たちがたとえば格好な例として賭け事のうちに見出すような快楽は、そのなかに大地と接触するというこういう要素をいっさいもっていない。
(ラッセルの幸福論)
まとめると。
- 本当の歓喜とは、濡れた大地との出会いのようなもの
- 原始的で、単純で大きい
- 不思議なエクスタシイがある
- 生理的要求が満たされる
- 賭け事の快楽には、大地との接触がない
- 飢え、乾く
- 正気ではなくなる
- 生理的要求が満たされない
普段、私たちが感じている快楽は、きっと、この2歳の男の子の歓喜に比べたら、幻影のようなものなのでしょう。
たとえば、シェイクスピアやワーズワースの詩には、大地に触れた歓喜で満ちているといいます。
やはり、そのような原始的な歓喜を表現できる人が、偉大な詩人として名前を残しているという証拠でもあります。
私たちの生命が、大地の一部だから。
私たちは、大地から栄養を吸収している
私たちがたといどんなことを考えたいと望むにもせよ、私たちは所詮この地上の人間である。私たちの生命はこの大地の生命の部分にすぎない。そして私たちは、動植物がそうしているように、この大地から私たちの栄養を引き出しているのである。
(ラッセルの幸福論)
「天空の城ラピュタ」ではありませんが、やはり、大地から生まれた生命は、大地とともに生きるのが一番の幸福。
文明社会での快楽は、大地からかけ離れていることが多く、それゆえに私たちは、しょっちゅう、心の病気を引き起こします。
日光浴や森林浴による自然からのパワーは、健康には欠かせません。
文明的な娯楽については、うまく活用していくという意識をもたないと、振り回されてしまいますね。
大地との接触による幸福感は、いつまでも残る
私たちと大地とを接触させるところの快楽は、そのもののなかに深く私たちを満ち足らわせる何ものかを持っている。だからそれが終わりになったとしても、それらの快楽がさきにもたらしたところの幸福感はいつまでも残留する。
(ラッセルの幸福論)
娯楽から得た快楽は、朝起きたときには、空虚感に変わっている。
でも、自然から得た幸福感は、ずっと消えません。
身震いするほどの感覚を、大自然を前に味わったことのある人は多いでしょう。
日々の生活の中に、自然からのエネルギーをとりこみましょう。
ありふれた日々に、大地を感じる余裕をもつ
目の見えるみなさんにお願いがあります
ヘレン・ケラーの話をご紹介します。
森の中を散歩していた友人に、何があったかと聞いたら、「別に何も」という返事が返ってきたそうで。
そのことに対する、ヘレン・ケラーの言葉。
1時間も森の中を散歩して、『別に何も』ないなんてことがどうしたら言えるのだろうと思いました。目の見えない私にもたくさんのものを見つけることができます。
目の見えない私から、目の見えるみなさんにお願いがあります。明日、突然目が見えなくなってしまうかのように思って、すべてのものを見てください。 そして、明日、耳が聞こえなくなってしまうかのように思って、人々の歌声を、小鳥の声を、オーケストラの力強い響きを聞いてください。
五感を最大限に使ってください。世界があなたに見せてくれているすべてのもの、喜び、美しさを讃えましょう。
いつもの、ありふれた景色。
それが見えるということの有り難さを、私たちはつい、忘れてしまう。
亡くなった人にとっては、見ることのできなかった今日の景色。
小鳥の声も、聞こえない人にとっては、聞きたくても聞けない声。
当たり前が幸せだということを、忘れてはいけません。
そのためには、自分自身をマインドフルな状態に保つことです。
今この瞬間の体験に幸せを感じるマインドフルネス
「気づかう」「心配りをする」という意味の英語の形容詞
- 今この瞬間の体験に、ただ注意を向けている心の状態
- ただ注意を向けるとは、 評価や判断とは無縁の心
- 評価:いいか悪いかをジャッジすること
- 判断:どういう意味か、自分の考えをまとめること
評価や判断をしないと、今・目の前の経験に集中することができます。
すると、すべての経験が有り難く、奇跡のようなものなのだと気づけるのです。
マインドフルネスを解説した本、「サーチ・インサイド・ユアセルフ」には、次のようにあります。
人は普通、水の上や空中を歩くのを奇跡だと考える。だが、ほんとうの奇跡とは、水の上を歩くことでも空中を歩くことでもなく、大地の上を歩くことだと私は思う。私たちは毎日、自分では気づきもしない奇跡に従事している。青い空、白い雲、緑の葉、子供の好奇心に満ちた黒い瞳、自分自身のふたつの目。すべてが奇跡なのだ。
(ティク・ナット・ハンの言葉)
マインドフルな状態にあるときには、大地の上を歩くという単純な経験さえも美しい奇跡となりうる。
私自身の経験では、マインドフルネスはほかのものを何ひとつ変えずに私の幸せを増すことができる。私たちは、痛みがないこと、日に三度食事をすること、Aという場所からBという場所まで歩けることなど、人生の苦でも快でもない事柄の多くはごくあたりまえのことだと思っている。だが、マインドフルな状態では、これらが喜びのもとになる。もうあたりまえだと感じていないからだ。そのうえ、もともと快い経験はいっそう快くなる。そこに注意が向けられていて、めいっぱい経験できるからだ。
(サーチ・インサイド・ユアセルフ)
今・この瞬間に注意を向ける。
それだけで、人は、幸福になれるといいます。
アドラー心理学が説いているのも、「今ここに強烈なスポットライトを当てよう」ということです。
やはり、「今ここ」という注意を向けることが、自分の幸せには欠かせません。
特に、娯楽による興奮ではなく、大地を感じること。
日光の強さを感じ、空の青さを感じ、木々のぬくもりを感じる。
自分をとりまく「自然」の姿に目を向ける。
そうすれば、どこへ行かなくても、どんな退屈な日々の中にも、歓喜は見いだせるのです。
不変の叡智とは、ありふれた物事に奇跡を見いだすことである。
(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
まとめ
同じ道を通っていても、毎日、何かしら変化している。
木々は成長しているし、気温も違う。
同じだと思って油断していたら、気温差にビックリして風邪を引いてしまうことがあります。
日々は、決して、同じではない。
同じだと思っているのは自分だけ。
同じだと思っているから、体もメンタルも、不調をきたすのです。
今日の空気は、昨日の空気とはまったく違う。
今日の自分も、昨日の自分とはまったく違う。
睡眠とは「死」であるという見方があります。
私たちは毎日、生まれ変わっているのです。
今日の自分は睡眠とともに「死」を迎える。
朝の目覚めは、新しい「生」のスタート。
そんな気持ちで、日々を新しい気持ちで生きてみる。
いつも会う人とも、新しい出会いだと思って、緊張感をもって会ってみる。
そうすれば、いつもと違う発見がある。
個人的な経験としては、ウツ状態から回復できたとき、朝、普通に目覚めただけで、うれしくなったことがありました。
父が亡くなったあとは、今日という日は、父親が経験できなかった今日なのだと感じました。
もしかしたら、二度と見れなかったかもしれない景色。
二度と会えなかったかもしれない人。
今日もこの景色が見られる。
今日もこの人に会える。
それが、どれだけ有り難いことか。
そんなふうに思えば、同じ場所であっても、新鮮な気持ちで過ごすことはできます。
マンネリとは、「自分が何も変化してないこと」「自分が変化を見つけられないこと」なのです。
ちょっとした変化を見逃さず、じっくりと味わうことで、マンネリさえも楽しむことはできます。
哲学者・カントは、生まれ故郷から一度も離れなかったといいます。
「この場所にいれば十分だ」と。
それなのに、「近代哲学の祖」と呼ばれるほどの業績を残したのです。
また、歴史学者のトインビー博士は、こう言われています。
「逃走はその場で、動かぬ旅の中でもできる」と。
動かぬ人こそ、発明家になるともいいます。
私たちは、情報をもちすぎたせいで、「何かをしなきゃいけない」「どこかに行かなきゃいけない」と、思いすぎなのかもしれません。
特別な場所に行って、特別な経験をしても、何も変化しないならば、意味がないのです。
「孤独をたのしむ力」の著者・午堂登紀雄さんは、「内省力」こそが幸福に欠かせないと述べられています。
人間は人とふれあうから成長するのではありません。人とふれあった刺激を自分の内に取り込み、それを自分の意志や価値観とぶつけ、より適切な言動となるよう、自己を変革させるから成長するのです。
実際、たくさんの人と会っていても未熟な人は大勢います。
(「孤独をたのしむ力」)
刺激を受けるだけでは成長せず、刺激を取り込み、内省して自分のものにした分だけ、人は成長する。
だから、たくさんの経験をしても、成長しない人もいるし。
少しの経験からでも、大きな成長をする人もいる。
また、「勝者の思考回路」の著者・柴田陽子さんは、「特殊な経験は必要ない」と言われています。
「勝者の思考回路」を身につけられるか否かを決めるのは、経験の多寡ではなく、そこで「何を思うか、感じるか」だからです。感想の持ち方と持つ量こそが重要なのです。
(勝者の思考回路)
「内省力」も、「感想」も、経験の数・興奮の数とは関係ない。
もっといえば、人生に、数量は関係ない。
「人生の質」こそ、大事にすべきものではないでしょうか。
同じ場所にいて、同じ経験をしていても、変化を遂げれば、スペシャルなのです。
なお、ラッセルは、興奮を否定しているわけではありません。
私はもちろん、興奮に対する反対を極端にまで推し進めるつもりはない。ある程度のそれは健康にはちがいない、だが、他のすべてのものと同じように、問題はそれの分量である。あまりに少な過ぎれば、それに対する激しい欲望を生みだすだろう。あまりに多過ぎれば疲労をかもし出すだろう。
多すぎず、少なすぎず。
何ごとも、バランスが大事。
決して、ひとつの出来事や物事に、のみこまれては、いけないですね。
そして、自然の恵みを、意識して感じてみること。
ありふれた生活であっても、大地の喜びを感じられれば、スペシャルになる。
毎日をスペシャルに。
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