アドラー心理学は、「ありのままの自分を好きになる」方法を教えています。
そのことを解説した本が、「嫌われる勇気」。
人生の不幸は、自分を好きになれないことだというのです。
でも、その教えには、ちょっと混乱する。
なぜなら。
自分を好きになるためには、人に嫌われる必要がある
けれども。
自分を好きになるためには、人間関係と向き合わなければならない
さて、どういうことなのでしょうか?
自分を好きになる決心ができるためには、他者との関係を築くことが自分にとって有用であると、はっきり理解されなければならない。
人は孤立して生きているのではなく、他者との関係の中にある。
人と人は結びついているのだ。
(アドラー 人生を生き抜く心理学)
Contents
「自立」とは、自分を好きになること
人生の目標は、自立と調和
- 自立
- 「私には能力がある」と思うこと
- 自己受容
- 調和
- 「他者は仲間である」と思うこと
- 一部だけを見て、全体を判断しないこと
- 他者信頼・他者貢献
私たちが目指すところは、「自立と調和」。
その中身は、「自己受容・他者信頼・他者貢献」。
つまり。
「自分を好きになる & 他者を好きになる」生き方を目指しましょう
ということです。
自分を好きなのかどうかさえも、わからなくなっちゃった。
「自分には価値がある」と実感できてる状態が、「自分を好き」ということです。
「自分には価値がある」と思えたときに、自分を好きになる
アドラーは、自分には価値があると思えたときにだけ、自分を好きになることができると言われています。
そもそも、「価値」って何?
辞書的な意味を見てみましょう。
どれくらい大切か、どれくらい役に立つかという程度。
つまり、「自分に価値がある」とは。
- 自分は、大切な人間である
- 自分は、役に立つ人間である
そう心から実感できることです。
「大切な自分」「役に立ててる自分」と、思えてるでしょうか。
人としての価値とは、「誰かの役に立つ」こと
「誰かの役に立つ」とは……
他者との関係の中で感じることです。
つまり。
人間関係の中でしか、自分の価値は見いだせないということ
「自分に価値がある」と感じ、自分を好きになるためには、どうしても他者の存在が必要なのです。
だからアドラーは、人間関係こそ、私たちが向き合うべき人生のタスク(課題)だといいます。
「7つの習慣」では、「自立と相互依存」を説いている
「7つの習慣」は、アドラー心理学の影響を受けています。
「相互依存」とは、他者との関係を Win-Win にすること。
「お互いにWin」「お互いに幸せ」という関係性を目指すことです。

幸せに生きていくことを考えたとき、他者との関係性作りは、どうしても避けて通れないんですね。
人間関係が苦手なのは、関係性の中で、「自分には価値がない」と感じてしまうからです。
社交が嫌いというよりも、「価値がないと感じてしまう自分」が嫌いなんですよね。
「自分には価値がない」と思うとき、自分を嫌いになる
この自分に「価値」があるとは、とうてい思えない
- 「自分には価値がない」と思うから、「こんな自分」と感じる
- 「自分には価値がない」と思うから、「自分はダメ」と感じる
- 「自分には価値がない」と思うから、自信がない
「自分には価値がない」と思っていれば、当然、自信もやる気も失ってしまいますよね。
「自分に価値がある」と思えないと、どうなる?
- 自分に自信がもてない
- 「こんな自分」「どうせ自分なんて」と思う
- 自分はダメ人間だと思う
- やる気も出ない
- こんな自分を、好きになれるわけがない!
「自分には価値がない」とは、「自分は役立たずだ」という思い
他者の中で、「誰の役にも立ってない」と感じることが、「自分には価値がない」という気持ちの正体です。
そして。
「自分は役立たずだ」と思うから、自分を嫌いになる
会社で、「自分は部品のようだ」と感じると、むなしくなりますよね。
家庭で、「自分は家政婦のようだ」と感じると、寂しくなります。
「何の役にも立っていない」という思いは、つらく寂しいもの。
そんな思いが積み重なって、人は自分を嫌いになります。
ずっと抑えていたけれど、どこかの時点で火がついてしまった
何かのきっかけで、思ってしまったのです。
「自分は役立たずだ」と。
「誰からも必要とされてないんだ」と。
であるならば。
自分を好きになるための方法は、ひとつしかありません。
もういちど、人間関係へ踏み出すこと
人間関係の中で、「自分には価値がある」と感じること
嫌われるかもしれないし、傷つくかもしれないけれど。
それでも、他者の中に踏み出すことでしか「幸せ」は見いだせない。
「嫌われる勇気」とは、「自分を好きになる勇気」なのです。
人間関係は、自分を好きになるための課題
トラウマは幻想
私たちは、人間関係から逃げているせいで、自分を好きになれないのでしょうか。
それとも、自分を好きになれないせいで、人間関係から逃げるのでしょうか。
人間関係から逃げたくなるときって、どんなときでしょう?
それは……
傷つくことが怖いとき
ですよね。
怖くなければ、逃げる必要はないからです。
- 人間関係から逃げたいと思うとき。
- 人間関係が面倒に感じるとき。
あなたの心は、「傷つくことを怖がっている」のです。
では、なぜ「人間関係で傷つく」と思っているのでしょう?
当然のことですが、「傷ついた経験」があるからです。
「過去の経験」が、「現在の恐怖」です。
要するに。
最初は、逃げていなかった。
「傷ついた経験」があるということは、「逃げなかった経験」もあるということです。
その証拠に、赤ちゃんは全員に笑顔を振りまいている
「自分なんて」と思っている赤ちゃんは、いないのです。
最初は誰もが、笑顔で応じていたし、自分のことも周囲のことも好きだった。
「人見知り」という傾向はあるにしても、必要以上に怖がることはありませんでした。
でも、あるときに経験してしまった
人と関わると、自分が傷つくことを。
そこから、逃げるようになりました。
できるだけ近づきたくないと思うようになったのです。
最初に逃げたのは、自分だった
逃げたから、自分の価値がわからなくなった。
逃げたから、自分を好きになれなくなった。
逃げたから、自分のやりたいことが、見つからない。
すべては、逃げたことが原因。
「傷ついた経験」は、きっかけにすぎません。
最初に逃げたのは、自分なのです。
だからアドラーは、「トラウマを否定」します。
「人間関係から逃げるため」に、トラウマを作り出した
「自分が逃げた」という事実を、考えたくない。
「自分のせい」にしたくない。
だから、「トラウマのせい」にする。
トラウマには目的がある。
「人間関係から逃げるため」という目的が。
これが、アドラーの主張する「目的論」です。
一部だけを見て、全体を判断しない
人生の目標
- 自立
- 「私には能力がある」と思うこと
- 自己受容
- 調和
- 「他者は仲間である」と思うこと
- 一部だけを見て、全体を判断しないこと
- 他者信頼・他者貢献
過度の一般化
「調和」の中に、「一部だけを見て、全体を判断しないこと」とあります。
これは、心理学用語で「過度の一般化」と呼ばれるもの。
10人のうち、誰を大事にする?
よく聞く次の話は、ユダヤ教の教えです。
10人の人がいるとして。
- 1人は、あなたを批判する
- 2人は、受け入れあって親友になれる
- 7人は、どちらでもない人々
10人のうち……
批判してくる1人を、大事にしたいですか?
親友になれる2人を、大事にしたいですか?
どちらでもない人々を、大事にしたいですか?
ほとんどの人が、「批判する1人」に注目する
(あなたを笑ったり小馬鹿にする人は、)せいぜい「10人のうち1人」の範疇(はんちゅう)でしょう。しかも、そのような態度をとる愚かな人間など、こちらから関係を断ち切ってしまってかまわない。ところが、人生の調和を欠いていると、その1人にだけ注目して「みんなわたしを笑っている」と考えてしまうのです。
(嫌われる勇気)
「みんな」とは、何人なのでしょう?
研究では、「3人」いれば、「みんな」だと思うことが、わかっているようです。
通常、3人で「みんな」になる
- 1人だけでは、「この人だけかもしれない」と思う
- 2人だと、「こういう人、たまにいるよな」と思う
- 3人目が現れたときに、「みんな、そうなんだ」と思い始める
通常でも、3人で「みんな」になる。
極端になると、1人でも「みんな」だと思う。
これが、「過度の一般化」です。
地球の人口約70億人のうち、何人?
自分を傷つけた人は、70億人のうち、何人いるのでしょう?
きちんとデータをとって、冷静に分析してみれば、わかるはずです。
「トラウマ」とは、とても偏った考えである、と。
対人関係がうまくいかないのは、吃音(きつおん)のせいでも、赤面症のせいでもありません。ほんとうは自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。それは人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイルなのです。
(嫌われる勇気)
- 人間関係から逃げることを目的に、自分で作りだした言い訳(=ウソ)
- 過度の一般化による、偏った見方
偏った見方によって、自分で自分を不幸へと追いやってしまっている。
自分で自分に、ウソをついてしまっている。
とても、もったいないことをしている、と言えます。
このままの状態で立ち止まってはいけない
逃げてはならない、ということです。どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。
(嫌われる勇気)
なぜ、逃げてはいけないのか?
最終的に、自分を嫌いになってしまうから
自分の存在価値がわからなくなり、自信とやる気を失い、何をやりたいのかもわからなくなる。
嫌われることを恐れるあまりに、自分で自分を嫌いになる。
とても矛盾した行動を、私たちはしてしまっているのです。
だからアドラーは、「人間関係」を「人生のタスク」とまで言うのです。
「向き合うべき課題」「逃げてはいけない課題」なのだと。
まとめ
「社会性を身につける」と、よくいいます。
学校や会社で集団生活を送るのは、社会性を身につけるためなのだ、と。
でも、本当に大事なのは、「社会性」よりも「自分を好きになる」こと。
自分を嫌いになってまで身につける「社会性」なんて、ほしくないですよね。
ウツになってまで頑張る必要が、どこにあるでしょう。
根性を出すことは、目的ではないのです。
自分を好きになるためには、ときに、つらい環境から離れる選択をすることもある。
目的はあくまでも、「自分を好きになるため」であって、無理して「社会性を身につけるため」ではないのです。
人間関係も、自分を好きになるため。
仕事をするのも、自分を好きになるため。
選択の基準はいつも、「これをやることで、自分を好きになれるだろうか?」という点におくこと。
「人間関係は人生のタスクである」という主張を最初に知ったときは、「根性論」なのだろうかと、誤解していました。
でも、そうじゃない。
大切な自分のために、自分が幸せを感じるために、向き合ったほうがいいことに勇気を出そうよ、ということなのです。
誰かとの競争ではないのです。
だから、パワハラやモラハラも当然、自分を好きになるためには、許しません。
誰かに見下されたり、バカにされたりしたら、怒っていい。
自分を好きになるために、「本気」と「勇気」を出すのです。
人の顔色をうかがうような「嫌われない生き方」をやめて、自分の幸せのために歩みだす。
そして、歩みだした先には、他者がいます。
そのとき初めて、本当の「調和」や「相互依存」が実現するのでしょう。
とりあえず最初の一歩は、「嫌われる勇気」ですね。
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