「飛べない鳥」
ペンギンの代名詞である。
しかし、「飛べない」と言ってはペンギンに怒られるだろう。
ペンギンは「飛べない鳥」ではない。「飛ばない鳥」なのである。
その証拠に、機能的に考えれば、今でも十分に飛べるそうだ。
だが、あえて「飛ばない」選択をした。
なぜか?
環境のせいである。
南極のきびしい大地で生き残るためには、魚を食べて生活するしかない。
そのために、「飛ぶ」エネルギーを、「泳ぐ」エネルギーに変えたのだ。
南極では、飛ぶよりも泳ぐほうが都合がいい。
「◯◯ができない」と思うとき、そもそも、それは必要なのか?と疑ってみたほうがいい場合がある。
コンプレックスとは、自分が勝手に作り出した虚像かもしれないのだ。
私は、コンプレックスのかたまりだ。
私はかわいくない
いつも無視される
いつもバカにされる
いつも我慢しなきゃいけない
私の話は面白くない
そこに根拠はない。
あるのはただひとつ。子ども時代に言われた、兄と母の言葉が基準である。
私には兄が2人いる。
男が2人も続いたあとの、待望の女の子だった。
3人並ぶと、どうしたって幼い女の子のほうが注目される。「かわいい」「かわいい」とチヤホヤされる。
どこへ行っても、きっと主役は私だった。少なくとも兄たちにはそう映ったに違いない。
私は、兄たちと一緒に、男の子の遊びをしたかった。しかし、必ず言われるのだ。
「女はあっちへ行け!」
「ついてくんな!」
「お前なんかいらない!」
ネガティブ・フィードバックの嵐である。いや、極寒のなかの猛吹雪だ。
そして、母からも。
「お兄ちゃんはできるのにねぇ……」
「お前は父親似でかわいくない……」
きっと、私がどうこうではなく、主役の座をうばわれる寂しさを止められなかったのだと思う。何をやっても「かわいい」と言われる女の子に、どうしようもなく嫉妬心がわいてしまったのだろう。
でも幼い私に、そんな心のメカニズムなんてわかるわけがない。言われた言葉を文字どおり受けとっては、「私は邪魔な存在なんだ」と思っていた。
しかし、数十年たった今、ひどく後悔している。
兄たちについていけないのならば、ついていく必要はなかった。私は私で、自分の世界を築けばよかったのだ。
私には、それができなかった。なんとか、ついていきたかった。仲良くしたかった。男の子の遊びが、したかったのである。
そして、できない自分は劣っているのだと、強いコンプレックスを抱いてしまった。
今でも、他人をうらやむクセが強かったり、他人と同じようにしなきゃいけないと焦ってしまったりするのは、そのせいだと思う。
「他人よりも劣っている」という意識が強いのだ。子どもの信念のままに、生き続けてしまっている。
だからこそ、深く深く、後悔の念がわいてくる。
私は、私の世界で楽しめばよかったのだ、と。
もちろん、コンプレックスを克服するという方法もあるだろう。苦手に挑戦し、自分を高めていく道もある。
しかし、もうひとつ考えてみてもいい要素がある。
その環境で、それができるのか? ということだ。
ペンギンは、住む場所が南極じゃなかったら、「飛ばない鳥」にはならなかっただろう。
あるいは、南極が氷におおわれた大地じゃなかったら、事態は違っていたはずだ。
つまり、自分のせいではない。環境のせいである。
ちょっと想像してみる。
泳がねばエサがないことに直面したペンギンが、「泳ぐ」という選択をしたことを。「飛ぶ」ことを放棄して。
かっこいい。そして、いさぎよい。
その精神があったからこそ、ペンギンは南極の皇帝になりえたのだ。
しかも、泳ぐほうが、飛ぶことよりもはるかに難しいそうである。それはつまり、飛ばない選択をしたからといって、簡単に泳げたわけではないということだ。
人も動物も、すべては自分で「選択」をしているのであって、できる・できないの問題ではない。
しかもその選択は、他の環境で生きる者にとっては、とても難しいことなのである。
だから、その素晴らしさに目を向けてみよう。
他の人には決して真似できない、「泳ぐ」という能力をつちかったのだ。
私は、昔の母や兄の言動に、いまだに支配されている自分を、恥ずかしく、また情けなく思っていた。ずっと隠そうとしていた。
しかし、ペンギンのようにいさぎよく生きたい。
そこでつちかった能力が、何かあるはずだ。
ペンギンが、コンプレックスを感じながら泳いでいたら、おかしい。
ペンギンが、なぜ自分は飛べないのだ?と考えていたら、おかしい。
自信をもって泳いでいて、しかも、かわいい。
いまや、水族館で一番の人気者だ。むしろ飛ぶ鳥よりも人気があるのではないか。
「飛ばない」をきわめると、人を喜ばすこともできるようになるようだ。
そうだ、泳ぎだすのだ、自分の世界へ。