「何もできない自分」はダメなのでしょうか。
できない自分も受け入れることが、自己受容なのではないでしょうか。
アドラーの掲げる幸福論
- 幸せ:自分を好きになること
- 「私は誰かの役に立っている」という思い
- 「私には価値がある」という思い
- 不幸:自分を好きになれないこと
- 「私は役立たずだ」という思い
- 「私には価値がない」という思い
だけど。
自分を好きになるためには、どんな自分も受け入れるという「自己受容」がポイント。
さて、どうしたらいいのでしょうか。
人の価値を何ができるかということに見ている限り、自分についても他者についてもいわば理想からの引き算でしか見ることができなくなる。
(アドラーに学ぶよく生きるために働くということ)
Contents
本当の幸せは、存在承認
人間の価値は「何ができるか」ではなく、「生きていることそれ自体」にあると、いつも知っておくことが大切。
(アドラーに学ぶよく生きるために働くということ)
存在承認:生きてることに価値がある
- 生きてるだけで、誰かに貢献できている
- いるだけ・いてくれるだけで、幸せ
- 何もできてなくても、「貢献感」をもてる
存在承認とは、存在していることに対する承認。
「生きているだけで有り難い」という感覚です。
一方、「何ができるか」で判断するのは、「行為承認」です。
行為承認:「何ができるか」で判断する
- 自分には何ができるか
- 相手は何をしてくれるか
- 「生産性」で価値判断する
会社組織では、どうしても行為承認、生産性での判断しかできません。
しかし、それはあくまで、会社の目的が「利益を上げる」ことだから。
目的に応じた価値判断
- 会社では、利益を上げることが価値判断
- サッカーでは、シュートをすることが価値判断
会社では利益を上げるしかないし、サッカーではシュートをするしかないわけです。
では、サッカーでシュートができない人は、幸せになれないのでしょうか?
シュートが苦手でも、守り専門の人もいる。
つまり。
特定の目的があるときには、生産性での判断をするけれども、それは、個人の幸せとは無関係なのです。
- 一人ひとりの人生における目的は、「利益を上げる」ことではなく、「幸せになる」こと
- 幸せは、「存在承認」で決まる
- 自分の価値を、生産性には見ない
存在を、ありのまま受け入れる
存在承認こそ、真の自己受容・他者信頼
他者が自分をありのまま受け入れてくれる仲間だと思えれば、役に立とうと思え、貢献感を持つことができる。
(アドラー 幸福の哲学)
- 自分の価値を、生産性(行為・能力)には見ない
- 何をしているか・何ができるかは、究極は関係ない
- 自分の存在そのままで、他者に貢献できると思う
- 他者も、自分を存在承認で受け入れてくれる
- 他者のことも、生産性では見ない
- いてくれるだけで有り難い
- 無条件で信頼できる
- 味方である他者に貢献できる
- 生きているだけで誰かの役に立っていると、主観で感じる
自分の存在価値を、勇気を出して信じることです。
自分の存在が、他者にとっての喜び
自分が生きていることで貢献できると思えるためには、勇気がいる。
他者が生きていることが喜びであるならば、自分も、他者にとって喜びになっている。
(アドラー 幸福の哲学)
失ったときに初めて、有り難みを感じることがあります。
引っ越し、卒業、失恋、死別。
そんなとき、思うものではないでしょうか。
「もう一度だけ、会いたい」
「一緒にいてくれるだけで、よかったのに」
「当たり前のことが幸せだった」
人は本来、いてくれるだけで、有り難いもの。
孤独のツラさを味わった人ほど、誰かがいてくれる喜びを、かみしめます。
ということは。
逆も同じ。
自分もまた、いるだけで、誰かの喜びになっているのです。
そのことを、信じること。
自分は、存在しているだけで貢献しているのだ、と。
定年後に元気をなくすのは、行為承認でしか生きてこなかったから
立場や役割を失ったとたん、急に元気が出なくなることがありますよね。
そんなときこそ、「存在承認」で考えられるかどうかです。
「何ができるか」ではない。
生きてることに価値があるのだ、と。
生きているだけで貢献しあえるのが「愛」
愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、変わります。生きている、ただそれだけで貢献し合えるような、人類のすべてを包括した「わたしたち」を実感します。
(幸せになる勇気)
アドラー心理学では、「愛しかない」というのが結論です。
自己受容・他者信頼・他者貢献、すべてが、自分と他者への「愛」の話なのです。
そして、本当の「愛」とは、「生きているだけで貢献し合える」こと。
「わたし」であることに、自信をもちましょう。
本当の個性は、「わたし」であること
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺(あざむ)き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。
(幸せになる勇気)
「特別なわたし」でいたいという欲求を捨てること。
「普通である勇気」。
自分は、「その他大勢の一人」であることを認める。
とにかく、自分を特別視しないことを、アドラーは強調しています。
私たちが自信をなくすのは、「すごい自分」への理想があるからです。
そもそも、「普通の自分」と思っていれば、自信があってもなくても関係ないはず。
つまり、理想の自分という幻想を、捨てられないでいるのです、いつまでも。
「人と違う自分」ではなく、「自分であること」に価値を見る。
そのままで幸せなのだと悟る。
自分に対して、過大評価をしているのかもしれません。
たとえ、迷惑かける存在であってもいい。
生きてることが、貢献なのです。
まとめ
- 生きてるだけで、誰かに貢献できている
- いるだけ・いてくれるだけで、幸せ
- 何もできてなくても、「貢献感」をもてる
自分の価値も、他者の価値も、生産性では判断しないこと。
「生きてるだけで有り難い」と思えること。
それでこそ、本当に自己受容できるし、他者信頼もできる。
やはり、「何ができるか」よりも、存在で受け入れてもらえるほうが、うれしいですよね。
私自身、父親を亡くしたときに、本当に実感しました。
「何をしてくれるか」じゃない、いてくれるだけでいいから、生きててほしかった、と。
だからこそ、心から思います。
私たちは誰もが、生きているだけで、いい。
生きてるだけで、必ず誰かの役に立っている。
そのことを、忘れずに生きていけることが、幸せなのだと思います。
自分自身のことを、何をしているか・何ができるかという、行為や能力での価値判断と自己批判は、さっさと、やめてしまいましょう。
最終的には、何をしたか・何ができたかなんて、関係なくなります。
「生きてるだけで幸せ」
そのことを、どれだけ実感できるかが、人生の重みになるのではないでしょうか。

ということで。
- 自分のことも他者のことも、生産性で判断してないかな?
- 一緒にいてくれるだけで有り難いと、思えているだろうか?
- 何もしてなくても、貢献できてると思えているだろうか?
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