過去ばかり見て、今を生きられないというのは、勘違い。
私たちは十分に、今の目的を重視している。
トラウマにとらわれているのではありません。
自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目している。
(嫌われる勇気)
つまり。
「やりたいことが見つからない」のではなく、「やりたいこと」はもう、実現している
もしも、今の自分を変えたいと思うなら、今の目的を「否定する勇気」を持つこと。
さて、今、自分が大事にしている人生の目的とは、何なのでしょうか?
「嫌われる勇気」by 岸見 一郎,古賀 史健
Contents
トラウマと憎しみを抱えるワケとは
自分を責めるクセが、経験をトラウマに変える
自分を責めるクセのある人は、要注意です。
自分を責めることには、とっても大きいメリットがあるため、やめられません。
そのメリットは何かというと……
自分は本当は「いい人」なのだと思える
(悪いのはトラウマだから)
自分を責めるメリット
- 「自分を責めるくらい、いい人なんだ」とアピールできる
- 「自分を責めるほど苦しんでいるから、こんな自分を許してほしい」と思える
- 「そんなに責めなくていい」と励ましてもらえる
- 同情してもらえる
でも。
「自分のせい」にし続けるのは、とてもツラい
だから。
最終的には「トラウマのせい」にします。
「トラウマのせい」にすることで、「自分のせい」から脱出しようとする。
つまり。
自分を責める人は、本当は自分を責めていない
自分を責め続けることは、あまりにもツライから、最後は「トラウマのせい」にしてしまうのです。
要するに、外部の世界(他者や環境や経験)を、憎むようになるのです。
自分を責めるクセのある人は、要注意!
いつしかトラウマを作り出し、ウツ状態になる。
外部の世界に対して、憎しみを抱くようになる。
自分を責めるとは、それくらい怖いことです。
経験という「材料」で、自分が料理をする
アリストテレスの「四原因説」
哲学者・アリストテレスは、物事の「原因」を4つに分けました。
料理にたとえてみます。
目的こそ、本当の原因
4つの原因のうち、「材料・行動・形」は、きっかけにすぎません。
- 材料がなければ、そもそも料理はできない
- 切る・焼くという行動がなければ、仕上がらない
- 最終形のイメージがなければ、形にできない
だから、環境が作っているのは事実。
でも、結局のところは……
人は、「目的」がなければ、決して動かない
「料理したい」「料理しなきゃ」という気持ちがなければ、材料があっても料理はしないのです。
「できるかできないか」はきっかけ、「するかしないか」が目的
4つの原因は、「できない」と「しない」の関係に分類することができます。
- 「材料」「行動」「形」がなければ……
- 料理はできない
- 依存的(環境で決まる)
- 「目的」がなければ……
- 料理はしない
- 主体的(自分で決まる)
「目的」のみが、「主体的」ですね。
「過去の経験」はきっかけ、「トラウマにした」のは目的
「過去の経験」という材料がなければ、トラウマを抱えることは、なかった。
でも。
そこに、主体的な目的を与えたのは、自分です。
「トラウマのせいにしよう」と、決めた自分がいる。
アドラーは、「トラウマ論」を否定し、「目的論」をかかげます。
人は、「目的」に向かって動いている
人は過去の原因に突き動かされるのではなく、自らの定めた目的に向かって動いているのです。
「言い訳」と「ウソ」
- 「相手を許せない」のは、逃げるための「言い訳」
- 「相手の欠点が気になる」のは、「ウソ」
「許せない」のは、言い訳にすぎない
「相手の欠点が気になる」のは、ウソである
人は、「傷つきたくない」「対人関係から逃げたい」という目的があるとき、「言い訳」と「ウソ」を多用します。
「相手の欠点」が気になってるわけではない
たとえば、同じことをされても、Aさんにはムカつくけど、Bさんには笑えるということがありますよね。
だから、欠点が嫌いなのではなく、「Aさんを嫌いになること」が目的なのです。
実は、自分をずっと嫌いでいたいのです。
「自分を好きにならないでおこう」という決心
短所ばかりが目についてしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているからです。自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目している。
私たちは、「自分を好きになれない」ことで、悩みます。
けれども、「自分を嫌いでいたい」。
「悩み」と「目的」に矛盾が生じるから、頭がモヤモヤする
アクセルとブレーキを、同時に踏んでいる状態。
だから、進みたくても進めないんですね。
では、なぜ、「自分を好きにならないでおこう」と決心してしまったのでしょうか?
「自分を嫌いでいる」ことのメリット(目的)
自分を嫌いでいるメリット
- 他者から嫌われない
- その前に自分で嫌う
- 他者から否定されない
- その前に自分で否定する
- 他者に傷つけられない
- その前に自分で傷つける
- エスカレートすると自傷行為になる
メリットが大きいので、目的を、なかなか変えられません。
なお、過去に原因を求めることは、仏教の因果論も同じです。
ただし。
仏教も実は、過去の因果を説いているのではありません。
仏教の因果論とアドラーの目的論は、希望を説く
過去の因果論と、未来の因果論
仏教の因果論には、2つの意味があります。
- 過去の因果
- 原因は「過去」 → 結果が「現在」
- 未来の因果
- 原因は「現在」 → 結果が「未来」
現在の自分の姿は、「過去の行動」によって決定された。
だから。
生まれながらにして、差別が生じる
- なぜ、貧乏な家に生まれたのか?
- なぜ、この容姿で生まれたのか?
すべては、過去世で、自分が原因を作ってきたからです。
自分のおこないが悪かったから?
一般的にも、「日頃のおこないが悪かった」と言いますね。
それが、日頃だけではなく。
なんと過去世から、延々と!
無数の「おこない」を、繰り越し続けているのです。
「原因のない結果はありえない」というのが、仏教の立場。
ただし、過去に原因を見ることは、「トラウマ論」と同じで、さまざまな弊害をもたらします。
過去の原因から生まれるのが、「あきらめ」
過去によって現在が決定されているのなら、私たちはもう、どうすることもできません。
あきらめるしか、ない。
もしくは、仏や神様に救ってもらうしか、ありません。
仏教に、どこか「厭世(えんせい)観」がただよっていたり、暗いイメージがしたりするのは、そのためです。
あきらめて、仏にすがりたい
「おすがり信仰」と思われている理由も、「あきらめ」「救ってもらいたい」という人が多いからです。
また、「救われたい」という心を利用して、お金儲けに走るようにもなります。
仏教に限らず、宗教はどんどん形骸化していくもの。
しかし。
釈迦が本当に説きたかったのは、「過去の因果」ではない
強調しているのは、「未来に向かう因果」のほう。
おすがり信仰を作りたかったわけでは、ないのです。
現在の原因から生まれるのが、「希望」
2つの因果論
- 過去の因果
- 原因は「過去」 → 結果が「現在」
- 未来の因果
- 原因は「現在」 → 結果が「未来」
2つのうち、本当に釈迦が言いたいのは、未来の因果のほう。
たしかに、現在は「過去の結果」であるのは事実
「食べすぎたから、太った」というように。
「原因 → 結果」は、誰も否定できません。
だけど、過去の原因ばかりを見つめていても、あきらめたくなったり、すがりたくなったりするだけ。
だから、今を見つめ、未来へ向かおう。
大事なのは、「未来」をどうしたいのか
いま現在の行動が「原因」となって、「未来」に結果が現れる
「未来」という目的があるからこそ、「今の行動」があります。
- だから、「今」を変えよう
- 「今」、幸せになろう
これが、仏教の「因果」の本質であり、アドラーの「目的論」なのです。
- 今、自分は、どこへ向かおうとしているのか?
- どういう未来を実現したいのか?
- そのために、「今」、できることは何か?
常に「今」から「未来」へ。
暗いイメージでしかない仏教ですが、実は明るくポジティブなもの。
アドラーの「目的論」も同じです。
だから、悪い「目的」では、悪いまま。
「性格」ではなく、「目的」を変える
性格を変える努力は、徒労に終わる
今の自分は、「性格」によって決定されるのではなく、「目的」によっています。
ということは。
「性格を変える努力」はしなくてもいい
性格ではなく、目的さえ変われば、行動が変わるから。
そもそも、性格を変えるのは非常にツラいので、挫折しがち。
挫折を重ねてしまうと、それこそトラウマだと思ってしまいたくなります。
経験に意味を与えているのは、自分である
われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
人生に、自分が「意味づけ」をしている
「どんな意味があるのだろう?」ではなく。
「自分は、どんな意味を与えたいか?」
考えに考えた結果、今の「意味」を積極的に選んでいます。
すべては、自分の選択であり、決定。
経験・現象のほうから、「意味」を与えられたのではありません。
私は、このことを知ったときは、かなり暗い気持ちになりました。
「全部、自分で選んだ」と言われると、自己卑下したくなるものです。
だけど。
発想を変えてみればいい。
「自分で決めている」とは、実はすごいことなのですから。
経験に左右されずに決める能力を、持っている
自分で「意味」を決め、自分で設定した「目的」に従っているということは……
私たちは、「経験」「出来事」「トラウマ」に振り回されているわけではないということ
すべては自分が決めているからです。
「主体的に生きる能力」を、すでに行使している
目的が先だったとは衝撃ですが、「自分で決める能力がある」と考えれば、自信がわいてきます。
アドラー心理学でいう、私たちの人生の目標のひとつは、「わたしには能力がある、という意識をもつこと」。
能力があると思えれば、もう一度、再選択・再決断をするだけ
再選択・再決断をすることを、アドラーは、「ライフスタイルを変える」という言い方をします。
そして、自分で選択する能力を必ず持っている。
それが、次の話。
まとめ
人生、「負けるが勝ち」
自分の人生の目的は、いったい何?
- 「自分のせい」にしたくない
- 対人関係で傷つきたくない
- 同情されたい
- 「自分はいい人」でありたい
- 「言い訳」がほしい
だから。
「やりたいことが、わからない」というのは、実は勘違い。
「やりたいこと」は、すでにやっている
「やりたいこと」も、「生きる目的」も、ただひとつ。
傷つきたくない
長い間、その目的に生きていたので、それ以外の目的がわからないのです。
そして、「傷つきたくない」という目的は達成しているので、今の自分は、成功した自分です。
だとしたら、ほかに「やりたいこと」なんて、なくて当たり前。
「傷つきたくない」という目的を抱えながら、「やりたいこと探し」は不可能
目的はすでに達成しているのに、「目的を探したい」というのは矛盾。
だから、「自分探し」や「やりたいこと探し」をする前に、今、自分が大事に抱えている「目的」は何なのかに気づかなければなりません。
過去の経験・トラウマは、まったく関係ない。
「目的」さえ変われば、悩みは解消するのです。
因果論は真実。けれども暗くなりやすい
アドラーは、「原因論」をスパッと否定しますが、個人的にはやはり、「因果」は真実だと考えています。
今の自分は、あくまでも、過去の結果。
ただし。
トラウマを否定しないと、過去への執着が断ち切れない
アドラーが「原因論」を否定したのは、それほど、過去に執着する人が多いからなのでしょう。
「原因」を切り捨てるくらいに考えないと、なかなか、過去の執着を手放せません。
「原因」を見つめ始めると、人は、ネガティブなほうへと考えがち
- 「原因」を考える
- 「過去」に目がいく
- ネガティブになる
- 「目的」を考える
- 「未来」に目がいく
- 気分は明るくなる
ならば、どっちを選びたいか?
「目的」を考えたほうが、変わりやすくなります。
今の「目的」を、否定する勇気をもつ
トラウマの否定は、とても勇気がいることです。
「今までの自分が間違っていた」ことを認めなければならないから。
誰かに命令されて、すぐに認められるほど、素直になれるわけがない。
変われないのは、能力の問題ではありません。
負けたくないからです。
でも……
負けてもいいではありませんか
素直になれないというよりは、素直にならないでおこうと決心しているのです。なぜそんな決心をするかというと、負けたように感じるからです。
自分に非があるのは明らかなのに素直に謝れないという時、その人は謝れば負けたことになると考えているのです。ですが、負けてもいいではありませんか。
(アドラー 愛とためらいの哲学)
負けたように感じてしまうと、素直になれない。
なぜか、屈辱的な気分になってしまいます。
それでも。
幸福とは、「負ける」なかにある
幸福になるとは、「勝ち」に執着することではないはず。
むしろ、「負け」を認めたほうが幸福。
もう、「白旗」を上げることでしか、新しい時代は開けないのです。
降参するしか、ありません。
降参しないと、戦争は終わらない
ムダな戦争がなくならないのは、誰も降参したくないからでしょう。
まずは、自分の中での戦争に、白旗を上げなければなりません。
勇気を出して。
もう、「トラウマ」は必要ない。
自分の過去に、白旗を上げよう。
必ず、新しい自分に出会えます。
人生は、きっと、「負けるが勝ち」
ということで。
- 今の悩みの目的は何だろう?
- 自分を嫌いでいたいのではないか?
- トラウマは言い訳なのではないか?
- 目的を再選択できるだろうか?
- 「負けたくない」と、執着しているのでは?
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