7つの習慣で、まず挫折するのは、第一番目の習慣。
「主体的に生きること」です。
最初っから挫折するので、その先の6つに、なかなか進めないんですよね。
幸せになると決めて、コントロールできない要因を受け入れて、コントロールできるものに努力を集中させることができるのだ。
「ありのままに生きる」「ラクに生きる」という言葉が流行してますが。
主体的に生きることは、選べるでしょうか。
「主体的に生きる」うえでの最大の難点は、自分の間違いを認めることだと思います。
確認してみましょう。
Contents
主体的に生きる
「反応を選択する力」をもって生きる
自分の反応を選択する力をもっていること
主体的とは
- 反応を選択する力をもつ
- 状況・環境・条件のせいにしない
- 一時的な感情だけの選択ではない
- 雨が降ろうが、他人が不機嫌だろうが関係ない
- 心から微笑んですごす
- 「なる」への情熱
- もっと忍耐強くなる
- もっと賢くなる
- もっと優しくなる
- 素敵なパートナーになる
- よりよい聞き手になる
- 心穏やかに受け入れ、幸福になる
主体的の反対は、反応的です。
反応的とは
- ただ反応するだけ
- 人が親切にしてくれると、うれしい
- 人が不親切だと、不機嫌になる
- 状況が悪いと、落ち込む
- 「持つ」への執着
- 家さえ持てば……
- もっと親切な上司を持てば……
- もっと優しい夫を持てば……
- もっとお金を持てば……
- もっと時間を持てば……
反応的にならないコツ
もしも、こんなことを言われたとして。
- あなたはいつも○○だね
- なぜおまえは、そうなんだ
- 変わったセンスだね
- すごいね
- あなたができたなんて、信じられない
- こんなことも、わからないの
こういうことを言われて、気分を上げたり下げたりする必要はなかったんです。
なぜなら。
「これらは、発言した人のパラダイムや人格のレベルを投影しているだけである」から。
パラダイムとは、「見方」のこと
私たちは、人それぞれ、自分だけのメガネを持っています。
自分の見たいように、世界を見ている。
その自分だけのメガネが、「パラダイム」。
なので、何かを発言するときは、「自分自身のパラダイムの説明」でしかない、といいます。
「発言」するとは、「自分のパラダイムの説明」をすること
- 発言した人は、発言した人自身のパラダイムを話している
- 言われた人は、「自分のことを言われてるのではない」と思っていい
「この人は、そういうメガネを持っているのか」
これだけで、いいんです。
そのうえで、どう反応するかは自分で決める。
そう考えると、必死になって言い返したり、相手の欠点を批判したりすることが、愚かだと思えてきますね。
愚かどころか、「私のパラダイムはこうだ」という表明にしかならないのです。
つまり。
相手の欠点を批判する人は。
「私は『欠点を批判する』というパラダイムをもっています」という説明をしている。
そういう説明がしたいか、どうか?
よく考えて、自分のパラダイムについて、自分で責任をもつことです。
主体的とは、責任をもつこと
「主体的」の意味は、実は、「責任」とほぼ同じ。
- 責任(レスポンシビリティー)
- 反応:レスポンス
- 能力:アビリティー
- つまり、「反応する能力」
さらに「選択」という強烈な武器をプラスすると、「主体的」になる。
「反応を選択する能力をもつ」
それが、「主体的に生きる」ということ。
「感情のコントロールができない」と、悩むこともあると思いますが。
私たちには、自分の反応を、選択する力があるんです。
ということは。
よく、「自己責任だ!」と叫ぶ人がいますが。
そう言っている人の反応の仕方はどうなのか? と思えば、ちょっと論点がズレてると言えますね。
行動を起こす責任はあなたにある。周りが動くのを待っていれば、必ずや周りに左右されることになる。自分で責任をとるかとらないか、どちらの道を選ぶかで、それに伴う結果は異なってくる。そして、それによってあなたの成長やあなたの人生が多大な影響を受け、大きく変わってしまうことになるのだ。
でも、ついつい、余計なことを言っちゃうよ。
本当に、反応を選択するなんて、できるのかな。
「4つの力」を発揮していけば、必ずできるのです。能力は誰もがもっているから。
4つの力を発揮して生きる:良心・自覚・想像力・自由意志
自分の感情・気分・考えを、自覚している自分がいる
自分の感情・気分・考えを、客観的に見る力は、誰もが持っていますよね。
それが、「自覚の力」。
これは、動物にはない力。
自覚ができないから、本能のままに行動するだけです。
では、なぜ、自覚できるかといえば。
「何かを感じている自分」と、「それを自覚している自分」が分離されてるから。
不思議ですよね。
自分のことなのに、「自分って、こうだなぁ」と自覚することができるんです。
1人の人間とは、思えませんね。
もしかしたら。
自分は二重人格ではないか、とか。
精神が分裂しているのではないか、とか。
ふと悩んだことがある人もいるかもしれませんが。
悩むことではなく、当たり前のことなのです。
むしろ、分離していていい。
分離しているからこそ、「変わる力」があるんです。
私たち人間には「4つの力」があるからこそ、「習慣をつくり、習慣を変えることもできる」
まず最初に必要な自覚は、「自分にコントロールできるものか、できないものか」の自覚です。
コントロールできる唯一のものは、自分自身
- 自分でコントロールできること
- つまり、自分
- 自立の習慣を身につける
- 全力集中
- 間接的にコントロールできること
- つまり、対人関係
- 相互依存の習慣を身につける
- 自分の理論の押しつけ→喧嘩→逃避というやり方を変える
- アプローチ法の工夫
- まったくコントロールできないこと
- 変えられないものは、そのまま受け入れる
- あきらめ
この3つの自覚。
自覚したあとも、また自覚。
この繰り返しですね。
妻を正そうとすることをやめて、自らの欠点を取り除くことに働きかけることである。素晴らしい夫になることに集中し、無条件に妻を愛し、支えるようにすることである。願わくば、妻もあなたの主体的な模範の力を感じとって同じようにしてほしいと思うだろう。しかし、彼女がそうしようとしまいと、状況を改善する最もよい方法は、自らのあり方に働きかけ続けることなのだ。
4つの力については、別でまとめてますので、こちらもどうぞ。

間違いを認めてこそ、初めて、先に進むことができます。
間違いは、勇敢に認める
正直に「自分の選択だ」と言えたとき、他の道を選べるようになる
自分の身に起こる出来事によって傷つけられるのではない。自分がその状況を容認するという選択によって、傷を受けるのだ。
(中略)
心底から正直に「今の状況はこれまで私が行なってきた選択の結果だ」と言えるようになるまで、「他の道を選ぶ」と言うことはできない。
私たちは、起きた出来事によって傷つくことはできません。
自分が受け入れてこそ、傷つくんです。
それが自分の選択。
そのことを自覚し、認めなければなりません。
そうしてこそ、初めて、「違う道を選ぶ」という選択ができるんです。
なかなか変われないのであれば、「自分の選択」ということを、認めていないのです。
間違いを認めないと、必要以上に傷つく
間違いを認めず、行動を修正もせず、そこから何も学ぼうとしないということは、全く異なった次元の間違いになる。こうすることで人は自己を欺(あざむ)き、正当化を繰り返し、嘘を重ねることになる。この二つめの間違い、つまり自己背信は、最初の間違いに異常な力を与えることになり、必要以上の意味を持たせ、自分自身にさらに深い傷を負わせることになる。
ここが難しいところですよね。
人は誰だって、自分の間違いを認めるのは怖いんです。
なんとかして正当化しようとしてしまう。
だから、キリスト教にも「懺悔(ざんげ)」の儀式があるんです。
キリスト教の教えのようですが、実は、仏教から取り入れたものです。
どんな宗派でも、やはり、「悔い改める」ことが転機になる。
「懺悔をする」
自分が認めることでしか、自分は救われないのです。
だから本当は、神様に救ってもらっているわけではありません。
自分の中から、「認める力」を出しているんですよね。
「認める」ことが、早ければ早いほど、夢が叶うタイミングも早まります。
間違いに対してどう反応するかで、その次の瞬間の質が決まる。次の瞬間に悪影響を与えないようにするために、すぐに自分の間違いを認め修正することが大切なのだ。
間違いに気づくことも難しい
間違いを認めることが難しい理由の2つ目は。
「気づいてない」こと。
むしろ、こっちのほうが、大半かもしれませんね。
間違いを認められない理由
- 間違いを、認めたくないから
- 間違いに、気づいてないから
だから、「自覚」の力が必要なんです。
自分の行動をしっかりと観察しなければなりません。
毎日毎日、「今日の自分はどうたったか」と、内省する作業が不可欠です。
わからない場合は、周囲に聞くこと。
聞くのも勇気がいるものですが。
主体的に生きるためには、自覚をしなければならないんですよね。
まずは、他人への批判をやめてみましょう。
行動を修正する
他人の弱点や欠点を批判しない
他人の弱点や欠点を批判する目ではなく、慈しみ深い目で見てほしい。彼らが何をしているのか、何を怠っているかが問題ではなく、それに対してあなたがどういう反応を選択するか、あなたは何をすべきかが問題なのだ。問題は自分の「外」にあると考え始めたら、その考えをやめてほしい。その考えこそが問題なのだ。
まずは次のことを30日間、おこなうことが推奨されています。
- 他人の弱点について争うことを、やめる
- 自分の弱点を、正当化することを、やめる
- 他人のせいにし、批判することを、やめる
- 間違いがあったら、素直に認め、修正し、学ぶ
私たちの、ほとんどの悩みが人間関係です。
ということは。
人と接するときの、自分の態度を修正する必要があるのです。
「主体的」とは、結局は、人との接し方の話になります。
自分を変えるとは、人との接し方を変えること。
他人の気持ちを理解し、賢くなる
主体性という言葉を聞くと、それは押しつけがましく、強引で、わがままで、無神経になることだと考える人もいる。しかし、それは全く違う。主体的になるということは押しつけがましくなることではなく、賢くなることなのだ。価値観に基づいて行動し、現実を正しく認識し、その中で他人の気持ちや周りの状況を理解することなのである。
「押しつけがましく、強引で、わがままで、無神経になることだと考える人もいる」
私自身も、そう考えていました。
正確にいうと、「7つの習慣」ではなく、アドラー心理学の「嫌われる勇気」を読んだときに思いました。
「嫌われてもいい」とは、「ワガママに生きてもいい」という意味ではないことに、衝撃を受けたのです。
どこまでも、「良質な人間関係を築く」ところがゴール。
それは「7つの習慣」でも、同じこと。
逆に、「いい人になる」という意味でもありません。
無理した振る舞いではなく。
「本当に内面から変わる」ことを目的としています。
そのために、間違った行動を修正するのです。
行動を修正し続けると、励ましを与える人になる
自分の身に何が起こるかではなく、それにどう反応するかが重要なのだ。
(中略)
難しい状況に対応する能力が高まり、ほかの人にも模範を示し感動と励ましを与えることができるようになるのだ。
主体的な人の態度は、自分自身の価値観を映し出すものであり、周りの人々の精神を高揚させ、彼らに勇気と希望を与える。
「個性の時代」「個の力」「影響力」という言葉が、どんどん強調される世の中になってきましたが。
本当の個性、本当の影響力とは。
自分の存在が、模範・感動・励まし・勇気・希望を与えているのかどうか。
「7つの習慣」的にいうと、そう定義できそうです。
そのために、まずは主体的に生きること。
これが、第一番目です。
まとめ

主体的に生きるために、まず決めること
アドラー心理学では、トラウマを否定しますが。
「7つの習慣」でも、やはり同じ。
「自分の選択の結果だ」。
まずは、そこを認めないと、新しい道の選択はできない、と。
だから、いつまでたっても、「自分はトラウマがあるから」と言っていては、次の道へはいけないんですよね。
「自分が選んだことだった」
それを、認めるかどうか。
人と話しているときにも、「あ、自分の間違いだったかな」と思うことがあっても。
「でも……」と、つい思ってしまいます。
なかなか苦しいところですが、それでも、認めるなら早いうちのほうがいい。
そして、コントロールできない過去をあきらめ、「今できること」に集中する。
それが、「7つの習慣」の第一歩目。
まだ一歩目です。
一歩目で、だいぶ躊躇して、動けてない、というのが現実です。
「行動が大事」とよくいいますが。
「行動って何だろう」って、ずっと思ってたんです。
まず最初の行動は、「自分の過去の間違いを認める」ことかもしれません。
人が深い傷を受けるのは、他人の行動によるものではないし、ましてや自分の間違いによるものでもない。それにどう反応するかによって傷を受けるのだ。自分を咬(か)んだ毒蛇を追うことによって、毒が全身を駆け巡り心臓に至るのだ。すぐその毒を取り除く手段を講じることの方が、大切なのである。
ということで。
- 主体的な反応をするために、何ができるだろう?
- 他人の弱点について批判してないだろうか?
- 自分の間違いを認め、修正できているだろうか?
- コントロールできる問題は、何だろう?
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